2016.10.15 土曜日 ヨギナミの家
あいつの話はやめてちょうだい。
もう二度と会いたくないってはっきり言ってやったんだから。
私はもう知らないわよ。
早くバイトに行きなさいよ。
保坂の父と何をしていたのか聞くたび、母は機嫌が悪くなる。ここ数日ずっとイライラしているようだ。ヨギナミは心配していたが、いいかげん相手するのも疲れてきていたので、逃げるように家を出た。
外はきれいに晴れていた。
こういう日は客も多いだろうと思った。
レストランではいつも通り仕事をこなした。予想通り客は多く、立ち止まる暇もなく動き回った。
昼1時頃、会計に来た中年の女性が、ニコニコしながらヨギナミに近寄ってきて、
保坂さんの奥様、退院したそうよ。
と言った。嫌がらせだ。
そうですか。よかったですね。
ヨギナミは相手にせずに厨房に下がろうとした。しかし、その女性に制服の袖をつかまれた。
待ちなさいよ。よかったですねで済むと思ってんの?
何をしてるんですか?
キッチンスタッフの一人が険しい顔で出てきた。
裁判になるわよ!あ〜!楽しみ!
女性は嫌味を言いながら外へ出た。
大丈夫?
キッチンスタッフがヨギナミを気づかった。
大丈夫。いつものことだから。
ヨギナミはそう言ったが、シェフは『少し休憩しろ』と言った。裏に行って携帯を見ると、保坂から『母が退院したのでいったん家に帰る』とメールが来ていた。
休憩から戻ると、隅の席に、久方と結城がいた。他のウェイトレスが対応しているようだ。
所長さん。珍しい。
ヨギナミは思いつつ、忙しくてなかなか2人に近づけなかった。何を話しているのか聞きたかったが、客の話を立ち聞きするのはよくないと思い直した。それに、そんな必要はなかった。
不思議な客よね〜。イケメンと少年。
ミーハーなおばさんウェイトレス達が、既に2人を捕捉していた。
どうもあの少年に好きな女の子がいるらしくて、
今日はその子と会えないからここに来たみたいよ。
いつも土曜日の昼はその子に会ってたんですって。
ふられたのかなあ。
早紀だ。ヨギナミは思った。今日は研究所にいないのだ。何をしているのだろう?せっかく保坂が出ていくのに。保坂の滞在を早紀がよく思っていないことは、クラスの全員が知っていた。
おっさんは明日来るだろうか。今の母と話せるのはおっさんしかいない。昨日佐加が来たが、『子供にわかる話じゃないの』と何も教えてくれなかった。佐加でだめなのだから、自分に話してくれるはずがない。
裁判になるわよ。
さっきの女性が言った言葉を思い出した。
本当だろうか。そうなったら母はどうなるのだろう?自分は?費用はどこから出せばいいのか。考えると怖くなるので、ヨギナミは気を紛らわせようと、いつも以上に熱心に仕事をした。
これ、期限迫ってるから、持っていきな。
シェフが冷蔵庫の刺し身をくれた。こんな高そうなものは久しぶりだ。ヨギナミは喜んで持って帰った。少し冷凍して、おっさんにも分けてやろう。
刺し身の喜びと裁判の怖さを同時に抱えながら家に近づくと、ドアの前に新橋早紀が座っていた。ヨギナミは驚いて立ち止まった。
ちょっと聞きたいことがあるの。
あ、これ、平岸ママのシャケご飯とエビフライ。
早紀の表情は暗かった。嫌な予感がしたが、ヨギナミは早紀を中に入れた。陰気な友人の訪問を、母はあからさまに嫌がり、ベッドから出てこようとしなかった。ヨギナミは刺し身を冷凍庫に入れ、平岸ママのご飯を茶碗によそって、早紀に出した。早紀はものすごい早口でごはんを一気に食べた。
ヨギナミ、研究所のパステル画のこと知ってる?
早紀が尋ねた。
パステル画?女の人の絵?
あれ、所長が描いた絵なの。ドイツで。
すごく大切な人なんだって。
すごく大切な人だよ?もう何だかわかっちゃうじゃん。
好きな人?
ヨギナミが言うと、早紀はなぜかふくれっ面をした。
サキ、それが言いたくてうちに来たの?
だってあかねに話したら絶対BLネタにされるし、
まともに話聞いてくれそうな人が他に思いつかないし、
平岸ママにはご飯持たせられるし。
早紀は寝ている母をちらっと見てからヨギナミに顔を近づけ、
幽霊達が成仏出来ないのは、
みんな橋本と所長が心配だからみたい。
と、耳元でささやいた。
だから橋本をなんとかしたいんだけど、
あいつは、ほら。
早紀が母を指さした。
お母さんを心配してるもんね。わかる。
ヨギナミは言った。
心配だけ?私はもっと危ない所に行ってると思うけど。
早紀がヨギナミを軽くにらんだ。あかねに似てきたなとヨギナミは思った。
所長の体で勝手に恋愛とかされたら困るし、
ヨギナミ、一回橋本に注意してよ。
みんなあんたを心配してこの世に留まってるんだって伝えてよ。
来たらね。
ヨギナミはなおざりに答えた。そんなことを伝える気は全くなかった。
所長さん元気?
前会った時はなんとか生きてた。
早紀が言った。つまり元気ではないということだ。ヨギナミはレストランで2人を見かけたと話した。
たぶん保坂が出ていったから、ごはん作るのめんどくさくなったんだろうなあ。
早紀はそう言って笑った後、
私、この町には、所長のために来たんだよね。
と言った。
北海道にも大自然にも興味なかった。ただ、所長がいたから、あの存在感があるようなないような不思議な感じが気になったからここに来たんだよね。結城さんに会ったのはそのおまけ。なのになあ〜。結城さんの背中を見ると抱きつきたくなる。
ヨギナミ、そういう気持ちわかる?
相手が杉浦なら、同じようなことを考えたことがあったが、ヨギナミは何も口に出さず、うなずくだけにしておいた。
ねぇ、ヨギナミ、恋って何だと思う?
サキ、大丈夫?さっきから変だよ?
変?どこが?真面目に聞いてるのに。
早紀の顔つきは真面目というよりは、絶望の一歩手前に見えた。電灯が切れかけていて時々点滅しているからかもしれない。取り替えなくては。
東京の友達はねぇ、私は結城さんに恋してるって言うの。でも、私は最近、所長に昔恋人がいたって知ってショックを受けた。私に取りついてるむかつく90年代のJKは、私のこと、誰にでも注目されたがるわがままな女だ、みたいな言い方で説教すんの。
私は何をしてるの?恋なの?何なの?この落ち着かない気持ちの正体が何なのかわからないんだってば!
とても追い詰められたように見えたが、ヨギナミには、早紀が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
その後早紀は、自分や高谷修平に取りついている『ムカつく昭和生まれの幽霊ども』の悪口をひととおり言った後、保存容器を持って帰って行った。
呆れたわ。とんだわがままね。
ベッドに隠れていた母が顔を出した。
文句を言えば誰かが何とかしてくれると思ってるタイプよ。あのしゃべり方。今までまわりにちやほやされてさぞ気楽に生きてきたんでしょうね。
あんなのと付き合うなんて、久方って人は女を見る目がなさすぎるわね。
母はベッドから出て『何か食べるものある?』とヨギナミに聞いた。おにぎりにして冷凍したシャケご飯を解凍して出した。母は珍しくおいしそうに食べた。
わからないわ。あんなのと付き合う男がいるなんて。
振り回されるに決まってるじゃないの。
あんなわがまま。
母は早紀の悪口をいつまでも言い続けた。
思ったことを口や態度に出さずにいられないようだったわね。子供よ。恵まれたお子様。
母はお茶を飲みながら言うと、さっさとベッドに戻って寝てしまった。
ヨギナミはしばらくぼんやりしていたが、思いつきで佐加に、
恋って、なんだろうね。
とメールしてみた。予想通り、
え?なんかあった?ホソマユ?
とすぐに食いついてきたので、早紀が来た話を送った。
サキが本当に好きなの、所長の方じゃね?
予想通りの答えが返ってきた。
気づいてないんじゃね?自分で。
結城さんは何なんだろうね。
両方好きなのかもね〜。それってやばくね?
やばいね。
サキ、おっさんを嫌いすぎ。
何でもおっさんのせいにするよね。
かわいそうすぎね?
そうだよね。
しばらく友達同士で文字の会話をしてから、ヨギナミは数学の勉強を始めた。寝る前にレストランでからまれた女性を思い出して憂鬱になったが、それはもうどうでもいいような気もしていた。
今おっさんにいなくなられては困る。
主に母が。
だけど、成仏できないのはかわいそうだ。
どうしたらいいのだろう?
ヨギナミは考え続けたが、いい案は何も浮かばない。




