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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年10月

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542/1131

2016.10.13 1979年

 菅谷誠一は、半ば楽しく、半ば悲しい気持ちで家のドアを開けた。

 

 今日も学校帰りに例の廃ビルに行った。そこには根岸菜穂がいた。新道はいなかった。橋本はいつも通りだらしなく床に座っていたが。

「アパートにもいなかったの。どこ行っちゃったのかなあ」

 菜穂はふてくされていたが、菅谷には好都合だった。一緒にいろいろ話をし、彼女は松谷みよ子が好きで、『ふたりのイーダ』が特に好きだということを聞き出せた。

「子供向けの本じゃねえかよ」

 という橋本の発言さえなければ、もう少し話せたのだが。

「シンちゃんに読ませようと思って持って行ったの」

「いくらバカでもそれは読めただろ?」

 橋本が尋ねた。

「うん。だけどね」

 菜穂が真面目な顔で黙った。

「どうしたの?」

 菅谷が尋ねた。

「シンちゃん、本当は頭いいのかもしれない」

「ハァ?」

「どこが?」

 橋本と菅谷が同時に聞き返した。

「どこがって言われてもはっきりわからないんだけど、なんていうか、シンちゃんって、人の気持ちを察するのがものすごく早いでしょ?街のおじいちゃんとかと話してても」

 それは菅谷も気づいていたが、口にしたくなかったので黙っていた。

「なんていうか、言葉をよく知らないだけで、実はものすごく知能が高いんじゃないかって思うの。本当はいろんなことがわかってるのに、言わないだけなんじゃないかな」

「それはないよ。なぁ?」

 菅谷は同意を求めて橋本を見たが、橋本は考え込んでしまっていた。

「だからがんばって本を読めばすごい人になると思うの!」

 菜穂が叫んだ。

「橋本くん行ってくる。本探さなきゃ」

 菜穂は階段を降りていった。

「そこで俺ん家かよ」

 橋本はめんどくさそうながらも、立ち上がってついていった。


 今日は楽しかった。しかし、根岸菜穂は新道に本を読ませることに夢中で、他のことが見えていないのもわかってきた。自分があそこに行くまで、あの橋本と二人きりで何か話していたというのも気になる。一緒に出ていって、今も二人でいるかもしれないと思うと、心が総毛立つ。

 あんな奴に根岸さんを近づけたくない。

 さて、どうするか。

 家に入ると、

「あ〜!やっぱり菅谷だ〜!」

 という、忌まわしい者の叫び声がした。

 はっと顔を向けると、廊下に新道がいて、天井に頭がつきそうな長身でニコニコ笑っていた。

「表札見たときにもしかしたらと思ったんだ〜!」

 新道はあくまで無邪気に喜んでいた。

「お前は、何を、している?」

 菅谷は、こみあげる怒りと驚きを抑えながら尋ねた。

 なぜ俺の家に新道が?

「あら〜誠一さん、おかえりザマス」

 母、市子いちこが現れた。料理中なのかエプロンをつけている。珍しい。

 やめろ!人前でザマスはやめろ!

 菅谷は心の中で叫んだ。

「お菊さんが急に来られなくなってしまったんザマスの。それでねえ、久しぶりに自分でお料理しようと思って買い物に行ったら、袋を落として中身が転がってしまったんザマス。それをそこの新道君が助けてくれたんザマス」

「俺も夕飯の買い物してたんだ」

 こんなでかいのが食料品の買い物。さぞかし目立っていたであろう。いや、そうじゃない。

 菅谷はこの不測の事態の中、なんとか落ち着こうとした。ちなみにお菊さんとは、この家に昔から来ている家政婦のおばあさんである。

「今日は新道君も一緒に食べるんザマス。作るの手伝ってくれたんザマスよ。まあ〜驚いた。わたくし、料理がこんなに上手な男性にはじめて会ったザマス」

 いつもなら、このザマスの連発に怒って怒鳴り散らしている所だ。しかし今、ここには新道という厄介な存在がある。こいつは根岸さんと仲がいい。妙な真似をしたら、彼女にしゃべられてしまうかもしれない。親に怒鳴り散らすような人間だとは知られたくない。

 菅谷は怒りを静めようと努めながら靴を脱ぎ、部屋にカバンを置いて、ゴミ箱やベッドに力いっぱい当たり散らしてから、深呼吸して着替え、食卓に向かった。

「お前ん家立派だな〜!」

 入るなり新道に好奇心いっぱいの目を向けられた。

「何このキラキラしたライト?」

「シャンデリア?」

「へぇ〜!!強そうな名前だな〜!!」

 バカだ。やっぱりこいつバカだ。

 菅谷は顔をしかめながら席についた。新道の態度には呆れた。他人の家にはじめて来たのになんだこの軽い態度は。少しは緊張しないのだろうか。

「やっぱお父さん金持ちなの?」

 何も気にしていないストレートな聞き方だった。

「父は銀行員で、祖父は頭取」

 多少は緊張してくれないかと思い、菅谷はわざと祖父の話を出した。しかし、

「トウドリ?何それ?」

 相手の知能を見誤っていたことに気づいた。

「一番えらい人」

 菅谷は、新道にわかりそうな語彙で答えた。

「へぇ〜!すごいな〜!やっぱ親がちゃんといると違うんだなあ」

 頼むから黙ってくれ。

 菅谷は心の中で言った。さもないと、今すぐこいつを張り倒してそのまま殺してしまいそうだ。

「おまたせ」

 ザマスが着替えて戻ってきた。なぜかきれいに正装して、シャネルのジャケットを着て、パールのネックレスをしている。何を考えているんだ、馬鹿馬鹿しい。メニューは普通の焼き魚だというのに。

「うわ〜きれいだな〜!」

 新道がバカみたいに叫んだ。

「こんなきれいなおばさん、俺初めて見た!」

「あらまあ、ありがとう。ウフフ」

 何を照れてるんだこのババア。

 菅谷はテーブルをひっくり返して怒鳴り散らしたい気持ちを、かわいい根岸さんを思い出すことでなんとか抑えていた。しかし限界は近そうだ。

 食事中、市子と新道は、食べ物の話で盛り上がっていた。新道はほぼ毎日買い物に行っているうえに、店の人とも仲良くしているらしく、どこの八百屋のおばさんが優しいとか、どこの魚屋のおじさんが面白いとか、いろいろなことを知っていた。

「最近スーパーができて、あの人達もたいへんらしいですよ。閉店した所もあるって」

「話には聞いてたけど、本当にそういうことが起きてるのねぇ」

 市子はテレビをあまり見ないので、世の中の動きをあまり知らなかった。新聞は一応見ていたが。

「それにしても、誠一さんにこんな気のいいお友達がいたなんて意外ザマス」

 友達じゃねえよババア。

 菅谷は心の中だけで言った。

「菅谷はすごく頭がいいんだ」

 新道はなんの悪意もなくニコニコ笑っていた。

「俺とナホちゃんに英語教えてくれるんです」

「おい!」

 菅谷は慌てて叫んだ。

「あらまあ、聞き捨てならないザマス!」

 市子はおどけた声を出した。

「女のお友達もいるんザマスか?まあ〜、誠一さんったらいつの間に」

 やっぱりさっき殺しておけばよかったと菅谷は思った。いや、今からでも遅くはない。後で新道は火刑に処す。もう決まった。

「俺頭悪いから、毎日本読んで勉強してるんですけど、みんな頭良すぎて何言ってるかよくわかんないんですよ。学校にいるより、魚屋のおじさんと話してた方が気が楽なんです」

 新道が言った。おや?と菅谷は思い、火あぶりを想像するのをやめた。新道は学校ではいつも笑ってみんなの話を聞いているから、てっきりバカみたいに楽しんでいるのかと思っていた。

「そうザマスか。でも今は大事な時期です。勉強はきちんとしなくてはいけません」

「わかってます」

 新道は言いながらもどこか困ったような顔をしていた。菅谷はそれを見てあることを思いついた。火刑より面白いことを。

「なあ、試験も近いし、3人でうちに集まって勉強しないか?」

 菅谷はそう言ってから、耳もとで、

「橋本と初島は呼ぶなよ?」

 と小声で言った。新道は「なんで?」と言いたげな顔をした。

「まあ!それは名案ザマス!」

 市子が手を叩いて笑った。

「今日はいないけど、いつもはお菊さんという家事のプロがいますからね。おいしいデザートを作ってもらいましょう」

「ほんと?」

 お菓子にまんまとつられて、新道が目を輝かせた。

 バカめ。

 菅谷は笑いながら愚かな二人を見下して、とてもいい気分だった。根岸さんにこの家と裕福さを見せることができれば、逆転できるかもしれないと考えていた。

 今に見ていろ、ノッポ。


 菅谷はその後、にこやかな友人を装って、新道を玄関まで送った。

「悪いな。うちのザマスを助けてもらって」

 菅谷はふざけて言った。

「変わった話し方するよね」

 新道が言って、歩き出したが、すぐ止まった。

「どうした?」

「いや」

 新道は立ったまま振り向かずに言った。

「菅谷が羨ましいよ」

 声がくぐもっていた。

「俺の親は未だに見つからない。誰も名乗り出てこない。俺は何か悪いことをしたんだろうか?だから出てきてくれないんだろうか」

「それは違うだろう」

 菅谷は言った。本当にそれはありえないと思っていた。

「俺は帰っても一人ぼっちだ」

 新道はそうつぶやいたあと、

「ごめん」

 と言って走り去った。

 菅谷はしばらくそこに立って、さっき食卓にいた楽しそうなバカと、今いなくなった孤独な男とを比べていた。

 あいつはもしかしたら、思ったほど単純ではないのかもしれない。根岸さんが言っていたように。

「誠一さん。そろそろ入らないと風邪を引くザマス」

 いつの間にか母が後ろにいた。こういう声をかけられたのは久しぶりのような気がした。前はいつだったろう?思い出せない。

「さっきの女の子について聞きたいザマス」

 母が探りを入れてきたが、

「根岸さんだよ」

 菅谷は正直に言った。

「根岸さん?あら、あの根岸さんのお嬢さん?同じ学校だったの?てっきり私立の女子校にでも行ったのかと思っていたザマス」

「同じクラスだよ」

「あらまあ」

 母は驚いているようだ。

「それなら、デザートはいいものを出さないと」

「一番いいのを出してよ。俺は勉強する」

 菅谷は部屋に戻った。倒れていたゴミ箱を元に戻し、それからいつも通りのルーティンをこなした。集中力には自信がある。昼間起きたことを気にせず夜0時まで勉強した。しかし、参考書やノートを片付けて寝ようとしたとたん、今日見聞きしたことの全てが脳裏に蘇ってきた。

 いや、俺は間違ってない。

 あいつは嫌な奴だ。邪魔だ。

 だけど。


 この日、菅谷は眠れなかった。




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