2016.10.13 1979年
菅谷誠一は、半ば楽しく、半ば悲しい気持ちで家のドアを開けた。
今日も学校帰りに例の廃ビルに行った。そこには根岸菜穂がいた。新道はいなかった。橋本はいつも通りだらしなく床に座っていたが。
「アパートにもいなかったの。どこ行っちゃったのかなあ」
菜穂はふてくされていたが、菅谷には好都合だった。一緒にいろいろ話をし、彼女は松谷みよ子が好きで、『ふたりのイーダ』が特に好きだということを聞き出せた。
「子供向けの本じゃねえかよ」
という橋本の発言さえなければ、もう少し話せたのだが。
「シンちゃんに読ませようと思って持って行ったの」
「いくらバカでもそれは読めただろ?」
橋本が尋ねた。
「うん。だけどね」
菜穂が真面目な顔で黙った。
「どうしたの?」
菅谷が尋ねた。
「シンちゃん、本当は頭いいのかもしれない」
「ハァ?」
「どこが?」
橋本と菅谷が同時に聞き返した。
「どこがって言われてもはっきりわからないんだけど、なんていうか、シンちゃんって、人の気持ちを察するのがものすごく早いでしょ?街のおじいちゃんとかと話してても」
それは菅谷も気づいていたが、口にしたくなかったので黙っていた。
「なんていうか、言葉をよく知らないだけで、実はものすごく知能が高いんじゃないかって思うの。本当はいろんなことがわかってるのに、言わないだけなんじゃないかな」
「それはないよ。なぁ?」
菅谷は同意を求めて橋本を見たが、橋本は考え込んでしまっていた。
「だからがんばって本を読めばすごい人になると思うの!」
菜穂が叫んだ。
「橋本くん家行ってくる。本探さなきゃ」
菜穂は階段を降りていった。
「そこで俺ん家かよ」
橋本はめんどくさそうながらも、立ち上がってついていった。
今日は楽しかった。しかし、根岸菜穂は新道に本を読ませることに夢中で、他のことが見えていないのもわかってきた。自分があそこに行くまで、あの橋本と二人きりで何か話していたというのも気になる。一緒に出ていって、今も二人でいるかもしれないと思うと、心が総毛立つ。
あんな奴に根岸さんを近づけたくない。
さて、どうするか。
家に入ると、
「あ〜!やっぱり菅谷だ〜!」
という、忌まわしい者の叫び声がした。
はっと顔を向けると、廊下に新道がいて、天井に頭がつきそうな長身でニコニコ笑っていた。
「表札見たときにもしかしたらと思ったんだ〜!」
新道はあくまで無邪気に喜んでいた。
「お前は、何を、している?」
菅谷は、こみあげる怒りと驚きを抑えながら尋ねた。
なぜ俺の家に新道が?
「あら〜誠一さん、おかえりザマス」
母、市子が現れた。料理中なのかエプロンをつけている。珍しい。
やめろ!人前でザマスはやめろ!
菅谷は心の中で叫んだ。
「お菊さんが急に来られなくなってしまったんザマスの。それでねえ、久しぶりに自分でお料理しようと思って買い物に行ったら、袋を落として中身が転がってしまったんザマス。それをそこの新道君が助けてくれたんザマス」
「俺も夕飯の買い物してたんだ」
こんなでかいのが食料品の買い物。さぞかし目立っていたであろう。いや、そうじゃない。
菅谷はこの不測の事態の中、なんとか落ち着こうとした。ちなみにお菊さんとは、この家に昔から来ている家政婦のおばあさんである。
「今日は新道君も一緒に食べるんザマス。作るの手伝ってくれたんザマスよ。まあ〜驚いた。わたくし、料理がこんなに上手な男性にはじめて会ったザマス」
いつもなら、このザマスの連発に怒って怒鳴り散らしている所だ。しかし今、ここには新道という厄介な存在がある。こいつは根岸さんと仲がいい。妙な真似をしたら、彼女にしゃべられてしまうかもしれない。親に怒鳴り散らすような人間だとは知られたくない。
菅谷は怒りを静めようと努めながら靴を脱ぎ、部屋にカバンを置いて、ゴミ箱やベッドに力いっぱい当たり散らしてから、深呼吸して着替え、食卓に向かった。
「お前ん家立派だな〜!」
入るなり新道に好奇心いっぱいの目を向けられた。
「何このキラキラしたライト?」
「シャンデリア?」
「へぇ〜!!強そうな名前だな〜!!」
バカだ。やっぱりこいつバカだ。
菅谷は顔をしかめながら席についた。新道の態度には呆れた。他人の家にはじめて来たのになんだこの軽い態度は。少しは緊張しないのだろうか。
「やっぱお父さん金持ちなの?」
何も気にしていないストレートな聞き方だった。
「父は銀行員で、祖父は頭取」
多少は緊張してくれないかと思い、菅谷はわざと祖父の話を出した。しかし、
「トウドリ?何それ?」
相手の知能を見誤っていたことに気づいた。
「一番えらい人」
菅谷は、新道にわかりそうな語彙で答えた。
「へぇ〜!すごいな〜!やっぱ親がちゃんといると違うんだなあ」
頼むから黙ってくれ。
菅谷は心の中で言った。さもないと、今すぐこいつを張り倒してそのまま殺してしまいそうだ。
「おまたせ」
ザマスが着替えて戻ってきた。なぜかきれいに正装して、シャネルのジャケットを着て、パールのネックレスをしている。何を考えているんだ、馬鹿馬鹿しい。メニューは普通の焼き魚だというのに。
「うわ〜きれいだな〜!」
新道がバカみたいに叫んだ。
「こんなきれいなおばさん、俺初めて見た!」
「あらまあ、ありがとう。ウフフ」
何を照れてるんだこのババア。
菅谷はテーブルをひっくり返して怒鳴り散らしたい気持ちを、かわいい根岸さんを思い出すことでなんとか抑えていた。しかし限界は近そうだ。
食事中、市子と新道は、食べ物の話で盛り上がっていた。新道はほぼ毎日買い物に行っているうえに、店の人とも仲良くしているらしく、どこの八百屋のおばさんが優しいとか、どこの魚屋のおじさんが面白いとか、いろいろなことを知っていた。
「最近スーパーができて、あの人達もたいへんらしいですよ。閉店した所もあるって」
「話には聞いてたけど、本当にそういうことが起きてるのねぇ」
市子はテレビをあまり見ないので、世の中の動きをあまり知らなかった。新聞は一応見ていたが。
「それにしても、誠一さんにこんな気のいいお友達がいたなんて意外ザマス」
友達じゃねえよババア。
菅谷は心の中だけで言った。
「菅谷はすごく頭がいいんだ」
新道はなんの悪意もなくニコニコ笑っていた。
「俺とナホちゃんに英語教えてくれるんです」
「おい!」
菅谷は慌てて叫んだ。
「あらまあ、聞き捨てならないザマス!」
市子はおどけた声を出した。
「女のお友達もいるんザマスか?まあ〜、誠一さんったらいつの間に」
やっぱりさっき殺しておけばよかったと菅谷は思った。いや、今からでも遅くはない。後で新道は火刑に処す。もう決まった。
「俺頭悪いから、毎日本読んで勉強してるんですけど、みんな頭良すぎて何言ってるかよくわかんないんですよ。学校にいるより、魚屋のおじさんと話してた方が気が楽なんです」
新道が言った。おや?と菅谷は思い、火あぶりを想像するのをやめた。新道は学校ではいつも笑ってみんなの話を聞いているから、てっきりバカみたいに楽しんでいるのかと思っていた。
「そうザマスか。でも今は大事な時期です。勉強はきちんとしなくてはいけません」
「わかってます」
新道は言いながらもどこか困ったような顔をしていた。菅谷はそれを見てあることを思いついた。火刑より面白いことを。
「なあ、試験も近いし、3人でうちに集まって勉強しないか?」
菅谷はそう言ってから、耳もとで、
「橋本と初島は呼ぶなよ?」
と小声で言った。新道は「なんで?」と言いたげな顔をした。
「まあ!それは名案ザマス!」
市子が手を叩いて笑った。
「今日はいないけど、いつもはお菊さんという家事のプロがいますからね。おいしいデザートを作ってもらいましょう」
「ほんと?」
お菓子にまんまとつられて、新道が目を輝かせた。
バカめ。
菅谷は笑いながら愚かな二人を見下して、とてもいい気分だった。根岸さんにこの家と裕福さを見せることができれば、逆転できるかもしれないと考えていた。
今に見ていろ、ノッポ。
菅谷はその後、にこやかな友人を装って、新道を玄関まで送った。
「悪いな。うちのザマスを助けてもらって」
菅谷はふざけて言った。
「変わった話し方するよね」
新道が言って、歩き出したが、すぐ止まった。
「どうした?」
「いや」
新道は立ったまま振り向かずに言った。
「菅谷が羨ましいよ」
声がくぐもっていた。
「俺の親は未だに見つからない。誰も名乗り出てこない。俺は何か悪いことをしたんだろうか?だから出てきてくれないんだろうか」
「それは違うだろう」
菅谷は言った。本当にそれはありえないと思っていた。
「俺は帰っても一人ぼっちだ」
新道はそうつぶやいたあと、
「ごめん」
と言って走り去った。
菅谷はしばらくそこに立って、さっき食卓にいた楽しそうなバカと、今いなくなった孤独な男とを比べていた。
あいつはもしかしたら、思ったほど単純ではないのかもしれない。根岸さんが言っていたように。
「誠一さん。そろそろ入らないと風邪を引くザマス」
いつの間にか母が後ろにいた。こういう声をかけられたのは久しぶりのような気がした。前はいつだったろう?思い出せない。
「さっきの女の子について聞きたいザマス」
母が探りを入れてきたが、
「根岸さんだよ」
菅谷は正直に言った。
「根岸さん?あら、あの根岸さんのお嬢さん?同じ学校だったの?てっきり私立の女子校にでも行ったのかと思っていたザマス」
「同じクラスだよ」
「あらまあ」
母は驚いているようだ。
「それなら、デザートはいいものを出さないと」
「一番いいのを出してよ。俺は勉強する」
菅谷は部屋に戻った。倒れていたゴミ箱を元に戻し、それからいつも通りのルーティンをこなした。集中力には自信がある。昼間起きたことを気にせず夜0時まで勉強した。しかし、参考書やノートを片付けて寝ようとしたとたん、今日見聞きしたことの全てが脳裏に蘇ってきた。
いや、俺は間違ってない。
あいつは嫌な奴だ。邪魔だ。
だけど。
この日、菅谷は眠れなかった。




