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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年10月

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2016.10.8 土曜日 研究所

『人生の苦しさから避難する方法は2つある。

 音楽と猫』

 アルベルト・シュバイツァーの言葉だ。久方が最も好きなものでもある。早く帰って音楽を聴きながら、かま猫やシュネーと遊びたい。

 しかし今、久方はうるさいショッピングモールにいた。ちょうど子供向けのイベントがあったせいで、いつもより人が多い。久方は物音に耐えられなくなって、やっとのことで空いているベンチを見つけて座った。隣では助手:結城が呆れて腕を組み、不機嫌な顔で通る人を眺めていた。買い物リストと代金は保坂に渡しておいた。


 あとであいつにちゃんとお礼言えよ?

 小遣いでも渡してやれ。

 何なんだよ。自分が買い物したいって言ったんだろ?


 結城は文句を言いまくっていたが、久方は返答する余裕がなかった。手がかすかに震えていた。

 スマホが振動した。保坂から『キャットフードどれでしたっけ?』という言葉と共に、売り場の写真が送られてきた。2段目の端の赤いやつと入力しようとしたが、手が震えて時間がかかってしまった。イベントが盛り上がっているのか、会場からは歓声や笑い声が聞こえる。それが久方には痛い。自分を攻撃するためにわざと集まっているのかとすら思う。被害妄想だとはわかってはいるが。


 お前明日本当に大丈夫?

 平岸と佐加も来るんだろ?

 新橋のクラスの奴らが一斉に集まって来るんだろ?

 お前絶対ナメられてるって、若い奴らに。


 結城が言った。久方は黙ってうつむいている。

 またスマホが揺れた。今度は早紀からで、平岸の奥さんが、かぼちゃパンを大量に焼いたから持っていくとのこと。1時には帰ると伝えておいた。


 ねえ。


 久方が小さな声を出した。


 奈々子さんが殺されたの、僕のせいだよね。


 スマホを見ていた結城が久方の方を向いた。


 お前のせいじゃない。


 結城はらしくない落ち着いた声で言った。


 あいつが勝手にやったことだ。お前のせいじゃない。


 それから、


 どっちかというと、俺のせいかもしれない。


 と言った。

 久方が結城を見ると、またスマホで何かを見ていた。


 保坂が俺好みのケーキを発見したらしいぞ。

 すげえ、見てこれ!買っていい?


 装飾過多なチョコレートケーキの画像を見せられた。


 好きにしてよもう。


 久方は呆れたが、またイベントの歓声と拍手が聞こえてビクついた。


 僕はサキ君が心配なんだ。


 久方は言った。


 新橋はたぶんお前の方が心配だと思ってるぞ。

 何なのお前ら?共依存か?


 勝手に言ってろ。いっつもそうやって僕に変な病名をつけるんだ。医者でもないくせに。


 実際変なことばっかしてるからだろ?

 そろそろ保坂を迎えに行くぞ。あのリストの量を一人で運ぶのは無理だろ?


 2人は食品レジに向かった。ちょうど保坂が、買ったものをエコバッグに詰めている所だった。


 悪いな、後で給料出すから。


 結城が勝手に決めて笑った。


 いいっすよ。もう1ヶ月もタダ飯食ってるし。


 保坂は愛想よく笑っていた。




 研究所にはもう早紀がいて、コーヒーを飲みながら待っていた。エコバッグを見ると、


 私も行きたかったのに!


 と叫んだ。テーブルの上にはかごいっぱいのパンがあった。


 来ても無駄だったぞ。久方が人に怯えて動けなかったせいで、買い物は全部保坂に任せたからな。


 結城が余計なことをバラした。早紀が心配そうな目で久方を見た。


 もう大丈夫。


 言いながら久方はキッチンに行き、買ってきたものを冷蔵庫にしまった。それから部屋に戻って、明日作るものと、今日のうちに下ごしらえしておくもののリストを作った。その間、早紀は結城や保坂と楽しそうにしゃべっていた。どうも、最近話題になっている動画の話らしい。久方にはわからないアプリやインフルエンサーの名前が、若者の口から次々と出てくる。


 秘密基地っていうのはな、

 大人になったら必要なくなるんだよ。


 いつか結城に言われたことを思い出した。その時は、思ったより早く来てしまうかもしれない。久方はリストを眺め、キッチンに戻って野菜を切り始めた。


 俺も何かやります?


 保坂がのぞきに来た。久方は必要ないと言った。結城と早紀が音楽の話をしているのが聞こえた。結城はクラシックとアイドルの曲しか聞かないが、早紀はいつも米津玄師を勧めてくるので、話はかみ合っていないようだ。


 トリセツ意味分かんない。あんな女やだ俺。


 結城が大きな声で言っている。歌詞を調べたのか、早紀が甘ったるい声の文章を読み上げる声がした。時々『うわっ』とか『怖っ』とか叫びながら。保坂が『え?これいい曲じゃないんすか?』と言ってしまったため、2人から総攻撃を食らっていた。


 あぁ、楽しそうだなあ。


 久方はハーブを束ねながら苦い顔をした。なんであの中に結城が入っていて、自分は料理なんかしてるんだろうと思った。

 いや、いいんだ。

 いつものことじゃないか。

 久方は自分に言い聞かせながらスープ作りをした。部屋から聞こえてくるトリセツ騒ぎを耳から追い出すため、スープ鍋の中身をじーっと見つめ続けた。


 お前、スープなんかいいから会話に加われよ。


 橋本の声がした。


 僕が入ったら白けるよ、あの会話は。


 久方は静かに答えた。


 明日は若いサキ君達が主役だから、僕は裏方に徹する。


 明日じゃねえって。今日の今の話をしてるんだよ。


 橋本はなかなか引き下がってくれない。いらだった気配すらする。


 ところでお前、なんで死んだの?


 久方はわざと相手が嫌がる質問をした。目論見通り、声は聞こえなくなった。久方は鍋の中をじっと見つめ続けた。


 所長、聞いてくださいよ。


 保坂が弱った様子でやって来た。


 俺の好きな曲をあの2人がボロクソにけなすんですよ。

 めっちゃ傷ついたべ。


 久方は作り笑いを浮かべて振り向き、


 あの2人、音楽の守備範囲が狭すぎるから、

 気にしない方がいいよ。


 と、いかにも気を使っているような口調で言ったが、

 本当はどうでもよかった。






 

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