2016.10.7 金曜日 ヨギナミの家
夜、ヨギナミは、津村記久子の『ポトスライムの舟』を読んでいた。働く人なら共感できると伊藤ちゃんに勧められたからだ。おっさんに見せると、
芥川賞も変わったな。
と言った。
夜しか来れねえんだ。創と約束したから。
所長と相談したらしい。昼間は所長の時間になったようだ。日曜にサキたちが集まるので来られないとも言われた。ヨギナミは母の機嫌が悪くならないか心配していた。小説に出てくるお母さんがしっかりしていていいなあとも思った。
読み終わってから公務員試験の勉強を始めた。テキストと問題集は、杉浦がどこからか年度の古いものを持ってきてくれた。杉浦は人のためを思うとすぐ動く。やりすぎなほど。そこは平岸ママに似ている。杉浦は何をするにも暴走ぎみだ。最近も『競歩の会を開きたい』とクラス全員に連絡してきた。江戸時代の人を見習って歩いて体力をつけたいそうだ。乗ったのは藤木だけだった。多分、参加者がいなさすぎてかわいそうだと思ったのだろう。藤木は優しい。
火曜日に杉浦の家で開かれる塾を、ヨギナミは楽しみにしていた。わからない所は何でも教えてくれるし(説明が過剰に詳しくて長すぎるけど)、何より杉浦と一緒にいられる。スギママも優しい。あそこの子供になりたいと毎週思うほど。でもたぶん、杉浦は親切でやっているだけで、自分に好意があるわけではないだろう。それがヨギナミには少しせつない。
ヨギナミも日曜に所長の所へ行ってみたかった。杉浦も来るから。だが、バイトがある。みんなあそこで何を話すんだろう?そこにいるのは所長だろうか。それともおっさんの方か。
疲れていたせいで、あまり勉強に集中出来なかった。部屋からは、母とおっさんが話す声が聞こえる。2人は昔の音楽(異邦人がどうとか言っていた)や若い頃、あるいは生きていた頃の話をしているようだ。母はそういう昔話を、娘の奈美には絶対にしない。それがなぜかはわからない。自分に向けられる言葉と言えば、
私が弱くなったのは、あんたを産んだからだ。
という文句ばかりだ。よそのお母さんは何人子供を産んでもビクともしていないのに。いつもうちだけが運が悪い。母は出産がきっかけで病んでしまった。少なくとも、本人はそう思っている。
母とおっさんは、どうなってしまうんだろう。
時々聞こえる笑い声に耳をすませながら、ヨギナミはやはり心配していた。
それから不意に、修学旅行でスマコンと同室だったことを思い出した。それについて、後で何度も佐加やサキにいろいろ勘ぐられたことも。
ヨギナミは不思議に思っていた。
こと権利にうるさい女子に限って、スマコンがレズだということをものすごく気にして悪口を言うのだ。
それを言ったら、クラスの半分は女が好きな人達ではないか。ヨギナミにとってはそれだけの話だった。私は男(杉浦)が好き。スマコンは女(たぶん伊藤ちゃん)が好き。ああ、そうですね。だから何?だ。佐加もサキも友達だが、スマコンに対する態度はどうも理解しがたい。
修学旅行で同じ部屋のとき、スマコンとは本当にまじめな話をしただけだった。
あなたの目にはわたくしは、お気楽なお金持ちのお嬢様に見えるでしょうね。確かにわたくしは恵まれていて幸せです。
だけど、おわかりでしょ?
わたくしが自分に正直になればなるほど、まわりはわたくしを嫌って引いていく。あるいは、女性がたに不気味がられるのです。別にわたくしだって、この世の全ての女性に欲情しているわけではないのにね。
でも、みなさんそういう風に思って警戒なさってるみたいね。バカみたいにね。
スマコンはそう言った。ヨギナミはそれから自分の生活の辛さを話した。2人は人生の辛さを共に嘆き合って、真面目な話をした。それだけだった。境遇は違っても生きる辛さは大して変わらないようだと思った。佐加とサキは、あまりにも世の中に適合しすぎていて、ある意味、恵まれすぎていて、そういうことがわからないのだろう。
あさみは寝たぞ。
気がつくと、おっさんがキッチンにいた。
ありがとう。夕ご飯。
今日おっさんは、所長が作った保存食をいくつか持ってきてくれていた。
俺が作ったんじゃないけどな。
おっさんは笑い、そして、
そういえば、杉浦って奴とはどうなった?
と聞いてきた。ヨギナミは旅行中のことを話した。
鹿児島で方言の資料にハマってしまい動かず、佐加に蹴られていた杉浦。
熊本で一緒に食べたデコポンアイスがおいしすぎて忘れられないこと。
夏目先生の人形に会って、感激のあまり泣いちゃった杉浦。
長崎の出島で歴史に思いを馳せているすきに、買ったお土産を佐加にすられた杉浦。
太宰府天満宮でガイドの人よりも長くしつこく歴史を語ってみんなに呆れられた杉浦。
博多赤煉瓦文化館で、鉱山の歴史資料を見て、そこで働く人たちの過酷な生活に衝撃を受けていた杉浦。
お前、旅行の間ずっとそいつしか見てなかったのか?
呆れるなおい。
おっさんが目を細めて腕を組んだ。
そいつは大学に行くんだろ?
うん。文学やりたいっていつも言ってるから。
文学?何か書いてるのか?
それが、自分で作品作ってるって話は聞いたことない。読み専じゃないかって伊藤ちゃんは言ってた。
批評家だ。それは一番タチの悪い奴だ。
おっさんが顔をしかめた。
自分じゃろくな文章書けないくせに、他人の小説はけなすアレだ。昔からいるんだよそういう奴は。そんな奴と付き合ってもいいことないぞ。
あの〜、まだ付き合うどころか意識もされてないよ。
毎週家に行ってんのにか?
あれは塾だもん。好意で開いてるんだもん。おっさんの古本屋に友達が来るのと同じ感覚だと思うよ?
ヨギナミが赤くなりながら言うと、おっさんはしばらく何も言わなかった。テキストに戻ってしばらくしてから、
なあ、お前、今の時間を大事にしろよ。
おっさんが言った。
お前はまだ、今みたいのが永遠に続くと思ってるだろ。
そうじゃないんだ。ある日突然終わるんだよ。
何もかも変わる日は必ず来る。
仲間とも別れる日が必ず来るんだよ。
だから一緒にいられる時間は大事にしろ。
おっさんの声には、いつもにはないせつなさがあった。
わかった。
ヨギナミはそれだけ答えた。おっさんが外に出ていく音が後ろから聞こえた。もう寝ようかとも思ったけど、もう少し起きていたいような気がした。
杉浦に今の話をしたら何と答えるだろう。いずれ別れる日が来る。そうだ、卒業したら杉浦はきっと、札幌か東京の大学に行くだろう。あとを追うのは不可能だ。
塾に行ける日はあと何日だろう。学校は何日行ける?ヨギナミはそれを考えて悲しくなってきた。やっぱりもう寝ようと思った。明日だってバイトがあるし。




