2016.10.2 1979年
「シーンーちゃ〜ん」
あるアパートのドアの前で、根岸菜穂が呼びかけた。
「あ〜そ〜ぼ〜」
すると、しばらくドタバタと中で音がしたあと、ドアが開き、新道隆が出て来た。眠そうな顔をしていて、慌てて着替えたのか、シャツのボタンが一個ずつずれていた。日曜の朝10時だった。
「日曜だからって朝寝坊しちゃだめよ?」
菜穂は笑いながら手を伸ばし、シャツのボタンを直してあげた。
「きのうは遅くまで本を読んでいたんだ」
新道は言いながらあくびを噛み殺した。
「橋本が勧めてくる本、みんな分厚くて長いんだよ」
「名作は長いもんねえ。ドストエフスキーとか」
2人は古書店への道を並んで歩いた。新道の背が高すぎるせいか、道を行く人がぎょっとした目を向けてきたりもした。若い2人はいろんな意味で目立っていた。あの2人、いつも一緒にいるけど、親御さんは何も言わないのかしら、どうしてあんなに背が高いのかしら、女の子とは50センチくらい差があるわ、などと、通りがかりの人は思っていた。
橋本古書店は日曜なのに開いていた。これは当時としては珍しいことだった。店主が暇だからというのもあるし、学生や子供が休みの日に居場所がなくならないようにと気を使ったというのもあった。近所には『日曜なのになんで開いてんだ?』とわざわざ文句を言いに来る者もいたが、そういう人も、最終的には店主ののんびりさに感化されて、本を買って帰っていくのだった。
この日、店主は冬でもないのに毛糸の帽子をかぶり、木製の机で書類に向かっていた。横にそろばんが置いてあった。彼は橋本の父親で、もう20年以上、ここで古本を売ってきた。
「こんにちわぁ〜」
新道と菜穂は2人揃ってのんきな挨拶をした。店主は顔を上げ、
「おう、おはよう」
と言った。この2人にはすっかり慣れていた。店の奥では息子の橋本旭が、キルケゴールの『不安の概念』を読んでいた。かなり古い本で、表紙は黄ばみ、題名は右から左に印字されていた。
菜穂は、松谷みよ子の本を手に取ったかと思えば、次は瀬戸内晴美に手を伸ばしたりと、何を求めているのかわからない本の選び方をしていた。新道は角の方に行き、『明治百年美術館』を勝手に紙ケースから出して、絵ばっかり見ていた。
「おい」
しばらく2人を観察していた橋本が声を上げた。
「お前ら何しに来てんだよ。古本屋は遊園地じゃないんだぞ」
「昨日夜中まで本を読んでたんだよ」
新道が本を紙ケースに入れながら言った。
「少し別なものが見たくなっただけだよ」
「あ、星新一が増えてる」
菜穂が笑った。
「まとめて売りに来た客がいてなあ」
店主がのんびりした声で言った。
「お前、あれくらい読むのに何日かかってんだよ」
橋本が新道に文句を言った。
「だってあれ分厚いうえに何冊もあるじゃないか!」
新道がたまりかねて叫んだ。
「まあまあ、いいじゃねえか」
店主がなだめに入った。
「本なんてのはな、ゆ〜っくり読みゃいいんだ。その方がわかる。旭みたいに何でも流し読みして頭に入っとらんのが一番よくない」
「頭にはちゃんと入ってるよ。うっせえなあ」
橋本は奥に引っ込んだ。
「ナホちゃん、何を探してるの?」
新道が菜穂に尋ねた。
「なんとなく見てるだけ。不思議ねえ。もう何十年も何百年も前の人が考えたことが、世界中からここに集まっているの。なんとなく手に取ったら──」
菜穂が本棚から一冊抜いた。『カフカの恋人ミレナ』という本だった。
「カフカってどこの人だっけ」
「チェコだな」
店主が答えた。
「小説はドイツ語で書いてたんだったかな、忘れた」
新道はチェコもカフカもドイツも知らなかったので、悲しい顔をした。
「アパートに戻ってお勉強しましょ」
菜穂が新道に言い、新道は『うん』と言った。2人は店主に挨拶をして出て行った。
「おい旭」
店主が息子に声をかけた。
「あの2人はずいぶん仲良しじゃねえか」
橋本は本を読むふりをして返事をしなかった。店主は、今年になって初めて息子が『友達』を店に連れてきたので、興味津々だった。今までこんなことは一度もなかった。息子は嫌われ者で、友達なんているわけないと思っていた。初島医院のお嬢様以外は。
「お前、友達にはもっと優しく話せ。ものの言い方が乱暴すぎるべ」
「うっせえなあ」
橋本はいらだった様子で立ち上がると、店を出ていってしまった。
やれやれ、最近いつもこれだ。店主は帳簿をつけながら笑みを浮かべた。いつもはどこかをほっつき歩いて帰って来ないくせに、あの2人が来そうな時間には必ず店にいやがる。何を考えているのかは一目瞭然だ。
自分も誰かと仲良くしたいのだ。そうに決まっている。




