2016.9.27 火曜日 研究所
サキ君がいない。
久方は目覚めたとたん、それを思って悲しくなった。秋倉高校の2年生は今、九州へ修学旅行に行っているのだ。金曜までこの町に帰って来ない。
もはや起きる気もしないので、枕に顔をこすりつけて眠りに戻ろうとした。
しかし、奴は弾くのである。
ドゴーン。
プロコフィエフの重いピアノソナタ6番が響き始めた。朝の6時だ。最近いつもこの手の重い曲ばかり弾いている気がする。嫌がらせとしか思えない。久方はうめきながら起き上がり、いつものように着替えを持って1階に逃げた。
朝のコーヒーを見ると、やっぱり早紀を思い出した。ほんの数日いないだけだとわかっているのに、なぜこんなに胸が痛くて気が重いのだろう?久方は邪悪なピアノを聴きながら考えた。そして、1つの極端な考えにたどり着いた。
サキ君は、僕自身だからだ。
それは、久方にだけは、ものすごい真実であるように思えた。新たな発見のようでもあるし、当たり前の事実のようでもあった。
そうだ、
早紀は既に自分の一部になっているのだ。
だから離れていると痛みを感じるのだ。
しかし、それがわかったところでどうしようもない。早紀は今九州にいる。どうあがいても金曜までは帰って来ない。
お前、どうかしてるんじゃねえの?
声がした。
いつの間にか、ソファーに橋本が座っていた。
赤い髪の男が、まるで生きているみたいに、はっきりと見えた。
やっと姿を表したな?
久方は橋本に向き直った。
このピアノどうにかなんねえの?
重苦しいったらねえよ。
橋本が下を向いて言った。
そうだね、その通りだ。
久方は言った。ふと思い当たった。もしかしたらあの助手は、橋本が苦手そうな曲をわざと弾いているのだろうか。
僕は──、
久方は言った。声が震えた。
お前をずっと誤解していた。
ずっと敵だと思っていたんだ。
すると、
俺は敵だよ。
橋本が下を向いたまま答えた。
お前の体を乗っ取って操っている、敵だ。
だけど、
久方は何か言おうとした。しかし、
俺にいい顔をするな。
橋本は顔を上げ、久方を正面からにらみつけた。
お前が言ってた通りだよ。
俺はお前の人生を破壊してきた敵なんだ。
お前は甘すぎる。誰にでもいい顔をしてんじゃねえよ。
だけど、
だけどじゃねえよ。
僕を助けてくれたじゃないか。
助けた覚えなんかねえよ。
本当は、この体はお前のものなんだ。そうだよね?
久方が言った。橋本は顔をそらせた。
あの人が──母さんが、お前を蘇らせるために作った体なんだ。全てがお前に合わせて出来てる。そうじゃないの?最近わかってきた。母さんが持っていた力とこの体の関係が。
僕は母さんの希望にそぐわない存在なんだ。
だから体を上手く動かせない。
そうだよ。本当にここにいちゃいけないのは僕の方なんだ。だって、この体はお前のものだから。それが、母さんが望んだことだから──。
馬鹿野郎!
橋本がすさまじい声で怒鳴った。
新道に怒られてふっ飛ばされただろ?
まだわからないのか?その体はお前のものなんだよ。
生まれた時からお前はお前なんだ!
俺達が何のために苦しんでもがいてきたと思う?
お前を生かすためだぞ?
なぜそれがわからない?
橋本はそこまで言って頭を抱えた。死んでも頭が痛くなったりするんだろうか。久方は余計なことを考えた。いや、大事なのはそんなことじゃない。
俺も悪いんだよ。初めは本当に勘違いしてた。
俺は死んだ。でも生まれ変わったらしいってな。
今思うととんでもない間違いだ。
でもすぐに気づいたよ。
この体には本当の持ち主がいるってことにな。
だけど……。
だけどじゃねえって。
さっきからだけどだけどってうるせえんだよ。
あさみさんはどうするの?
久方は言った。
僕思うんだけど、あの人、見た目よりずっと病状が重いと思うよ?本当は入院した方がいいんじゃない?
ヨギナミはきっと、忙しすぎて気づいてないんだよ。
お前はあさみの心配なんかしなくていい。
橋本がつぶやいた。
しなくていい?
じゃなんでわざわざ僕の体を使って会いに行くのさ?
橋本は答えない。久方はカウンター席に座って、息をふうっと吐き出した。
町の人と仲良くなったり、パチンコで人のお金勝手に使ったりしてさ。
久方は言った。
俺は、
橋本がつぶやいた。
お前がうらやましいよ。みんなに好かれてるもんな。
ハァ!?
久方は驚きのあまり変な大声をあげた。
何言ってんの?それはお前だろ?
いっつも僕より先に人と仲良くなってたじゃないか!
神戸でもドイツでも!
今だって町の人に好かれてるのも、あさみさんと仲良くしてるのもお前だろ?
俺はもう死んでるんだよ。忘れてるだろ。
橋本が言った。
俺がお前の体を使って何をしようが、町の人が見てるのはお前だ。
みんなにはお前しか見えてない。
俺の存在を知ってるのはあさみと佐加とヨギナミくらいだ。最近高校のガキが噂し始めたけどな。
でもお前は生きてて、自分の人生がある。
友達もいるだろ?けっこう。
そこまで言って、橋本は黙った。雲が動いたのか、部屋に急に光が差し込んで来た。久方は思わず窓の外を見た。美しい日差しだ。早紀がいたら一緒に外を歩けるのに。
世界はお前のものだ。俺のものじゃない。
声がした。久方が振り返ると、橋本はもういなかった。ソファーには誰もいない。ピアノの音もいつの間にか止んでいた。
あさみさん、どうするの、本当に。
久方はつぶやいた。もちろん答えは、ない。
はいはい。
当たり前のことを言われて説教されたんだろ?
わかったよ。お前もいいかげん理解しろ。
自分の人生と向き合って大人になってくれ。
昼過ぎ、話を聞いた助手:結城は、めんどくさそうにそう言いながらピザをかじった。
僕、どうしたらいいと思う?
久方が尋ねた。食欲がわかなかった。
そろそろここを出て、神戸に帰ったらどうだ?
親も心配してるんだろ?まともな方の親が。
結城は言った。久方はそこで思い出した。
早紀の存在を。
まだ帰れないよ。
久方は言った。ピザを手に取ったが、すぐに戻してしまった。
サキ君がいるし。
久方が言うと、結城は鼻から息を吹いて笑った。
お前は勘違いしてるぞ。
相手は女じゃない。十代のガキだ。
今成長してる途中の子供だぞ?
ここはあいつらにとって、秘密基地みたいなもんだ。
いいか?秘密基地っていうのはな、
大人になったら必要なくなるんだよ。
いずれみんな、ここには来なくなる。
大人になって、別な場所へ巣立っていくんだ。
俺らみたいなおじさんのことはすぐ忘れて、
『そういえばそんな人いたっけ、なつかしいね』
なんて言うようになるんだって。
初めからそう思って覚悟してた方がいいよ、マジで。
結城はそう言ってから、久方のピザを一切れ奪って食べると、2階に上がって行った。すぐにピアノの音が聴こえてきた。リストの『孤独の中の神の祝福』だった。朝のプロコフィエフとは正反対の優しい音が響いてきた。もしかして気を使っているのだろうか、あのピアノ狂いが。
久方は少々不気味さを感じながら、もそもそとピザの残りを食べ、コーヒーを飲んだ。早紀から『西郷隆盛のロボットを見ました!』というメールが来ていた。旅行を楽しんでいるようだ。
もはや自分の半身と化している早紀。
でも、いつかいなくなる日が来る。
お別れしなくてはいけない日が来てしまう。
だけど。
久方はまたつぶやいた。そうなるのはもっと先でいい。今はまだ、ここから動けない。まだわからないことがある。気になることも多すぎる。
久方は外に出ることにした。少し遠くまで歩いてみようと思った。体にはまだこわばりも震えもある。でも、出来るだけ遠くに行けるようになりたいと思った。雲の多い晴れの中に、久方は駆け出して行った。草原はいつも通り輝いていた。
何が起きても、ここの景色は変わらない。




