2016.9.24 土曜日 ヨギナミの家
ヨギナミは今日もバイトである。
修学旅行があろうが試験があろうが、働かねばならない。バイトを5日も休むことに、ヨギナミは罪悪感を感じていた。旅行費用はみんなが出してくれたが、休んだ分バイト代が減ることまではみんな考えていなかったのだ。自分で生活費を稼いだことがない人は、そこまで頭が回らないのだろう。平岸あかねのような恵まれた人は『生活保護があるんだからいいじゃない』と簡単に言うが、生活保護はそんなに簡単に出るものではない。ヨギナミの家が母名義の持ち家だったり、まわりの土地があったり、祖母ともめて得た貯金を母が使いたがらなかったりと、いろいろ事情が複雑なのを理解していないのだ。
母がここを売って、町から出る勇気を持ってくれれば。
そう思うが、そんなことは無理だと、だいぶ前からわかっていた。母はとにかく、この家から頑なに出ようとしない。それはあの男のせいだと、ヨギナミは思っていた。ほんの少し前までは。
あいつと一緒に暮らす?冗談じゃないわよ。
と昨日母は言ったのだった。去年までクリスマスを一緒に過ごしていたくせに。やっぱりおっさんに気が移ったのだろうか。
でも、あれは所長さんなのだ。
どうなるのだろう?
自分が旅行で4日も家を離れたら、
2人で夜中に結ばれちゃったりしないだろうか。
ヨギナミは真面目に悩んでいた。しかし、今さら『やっぱり旅行行かない』とも言えない。佐加に殺される。
レストランに着くと、ウェイトレスのおばさんが駆け寄って来て、
あのかっこいい人、また来てる!
と言った。見ると、結城がいた。向かいに保坂秀人が座っていたので驚いた。
そういえば保坂、所長さんの所にいるんだっけ。
やあご苦労さん。
久方も連れてくる予定だったんだけどさ、
あいつ最近出かけるのを怖がるんだよね。
ヨギナミを見ると、結城は気安く声をかけた。ヨギナミは曖昧に笑った。保坂はちらっとヨギナミを見て、挨拶代わりに手を軽く上げると、すぐパスタに目を戻した。
ま〜、どうせ今頃新橋と一緒に、
俺達の悪口言ってると思うけどね。
新たに客が来たので、ヨギナミは仕事に戻った。サキはやはり所長の所にいるのか。あの2人の関係は何なのだろう?いや、もっと不思議なのは、母とおっさんの関係だが。
他の客の後片付けをして、お土産を並べ直していたら、保坂が近寄って来た。
古いパソコン。アップデートして使えるようにしたから、あげる。
いきなり言われて、ヨギナミは目をぱちぱちさせた。
公務員なら、パソコン使えなきゃダメだべや。
WIFI使いたかったら俺の貸すから、
それで試験の情報調べられるべ。
保坂はそう言って口元で笑い、席に戻って行った。
パソコンを2台も持っていたのか。さすが金持ち。
でもいい話だ。確かにパソコンは必要だし、自分では絶対に買えないし。
結城と保坂が帰って行ったあと、ヨギナミは小さく鼻歌を歌いながらテーブルを拭いた。
そこまではいい日だったが、3時頃、恐るべき客がやってきた。
秋倉のご婦人達だ。
何かの集まりでもあったのか、みんな正装で、パールのネックレスや派手なピアスをつけ、指には一様に結婚指輪がはまっている。そして、みんな同じような小太り体型だった。彼女達はヨギナミを見て、同じように不快な顔をし、席につくとひそひそ話を始めた。
私が行くわ。あなた皿洗ってなさい。
何かを察したおばさんウェイトレスが、ヨギナミを厨房に引っ張り、自分が注文を受けに行った。
保坂の旦那さんまだ帰って来ないんですってよ!
ご婦人の一人が大声で言った。
奥さんが入院してるってのにどこへ行ってるんだかねえ。
もう一人がやけに大きな声を出し、残り数人がクスクスと笑いをもらした。
こちらに聞こえるようにわざと言っているのだ。
ヨギナミにはすぐわかった。
しばらく出ない方がいいよ。
シェフが調理しながらつぶやいた。事情は全部知っているのだ。
保坂が帰った後で本当によかったとヨギナミは思った。なるべく気にしないようにしながら、サラダの盛り付けをした。
絶対、裁判になるって。
ご婦人方はなおも声を出し続ける。
悲惨よね〜!
病気の上に慰謝料まで払わなきゃいけないなんて!
自業自得でしょ?
悪いことはするもんじゃないわよね〜!
よくこの町に住んでいられるよね〜!
わざとらしい大声が続く。しかもみんな、心から悪口を『楽しんで』いるようだ。ヨギナミは、こういう人達がこの世に存在することが信じられなかった。しかも、世間から『まとも』と言われているのはああいう人達の方なのだ。真面目に働いている自分ではなく。
ふと、ヨギナミは似たような場面をどこかで読んだような気がした。
思い出そうとしているうちに気づいた。
『人間失格』だ。
そんなことは世間が許さないと言われた時、
『世間じゃない。許さないのはあなたでしょう』
と、確かそんなような場面があった。
あの時代から、人の意地悪さは変わっていないということだ。
ヨギナミは、今度、杉浦に今日のことを話してみようと思った。本の話と絡めて。それで少しだけ気が晴れた。ご婦人達はまだ悪口を言い続けていたけれど。
あんなババアはこの町でもほんの一部だ。
めげんな。
客が帰ってから片付けをしている時、シェフが言った。
わかってます。ありがとうございます。
ヨギナミは答えた。少なくともここの人達は自分の味方だ。ありがたい。
家に帰ると、母はもう眠っていた。顔色がよくなかった。最近元気がなく、悪口を言う気力もなさそうだ。病院に行けと言っても嫌がる。医者にここに来てもらうことも出来るよと言ったら、逆上して物を投げてきた。どうしたらいいのだろう?平岸家に相談すべきだろうか。しかし、あかねの目が怖い。おっさんは明日来るだろうか?来てくれれば少しは元気になるだろう。でも、このままこの状態を続けていていいものだろうか。




