2016.9.22 木曜日(祝日) サキの日記
私、今日は、あなたにお説教する。
朝起きたら、奈々子さんが横に立っていて、私に言った。
あなた、大人の男を信じすぎ。
みんながおバカなパパだと思ってない?
それはとっても危ないことだと思う。
何ですか、朝から急に。
あなたは自分のことが全然わかってない。
私が怒っているのにかまわず、奈々子さんはしゃべり続けた。
あなた、自分がものすごく美人だって気づいてる?
豚まんには似てないの。
由希さんにそっくりなの。なのにあなた、見る目が歪んでるから、自分をブスだと思ってる。
でも全然違う。あなたに話しかけられた男はみんな、『ウヒャー!美女が俺に気がある』って思っちゃう。
それがどれだけ危ないことかわかってる?
何言ってんだかさっぱりわかりませんよ。
私はかまわずにコーヒーをいれて飲んだ。
朝の6時だった。
奈々子さんはそこで一度消えた。
私が美人?
バカ似なのに?
彼女は何を言っているのだろう?
マグカップを持ったまま鏡を見た。いつもと変わらない私がそこにいた。顔が丸い。子供だ。しかも、平岸ママの料理攻撃で太った。結城さんの目にはきっと、女に見えてない。
沈んだ気分で朝食に行った。気温は10度近くまで下がっていて寒い。修平はもう冬用のベストを着ていた。なんかおばさんぽいなと思ったけどもちろん口には出さない。相手は体が弱いのだ。普通の基準で見てはいけない。
昨日の夜、先生と奈々子さんが話してたけど、
気づいた?
修平が私を見るなり笑って言った。
2人ともサキのこと心配してたみたいだよ〜?
大人の男の家に入り浸ってるから危ないってさ〜。
カッパを絞め殺したくなった。そうか、だから奈々子さんが今朝出てきたのか。新道が余計な注意をしたから。腹立つ。
食事後すぐ研究所に行った。せっかく晴れていて気持ちのいい風が吹いているのに、気分はよくなかった。朝から説教されたせいかもしれない。
建物に近づくと、保坂がガーシュインを練習する音がしていた。結城さんは1階でテレビを見ていた。この音、気にならないんだろうか。すごく不思議だった。
所長はどこですかと聞いたら、
試しに少し遠くまで歩いてみるって言ってた。
でもあいつ、今外を怖がってるから、
どこまで行けたかな。
結城さんはテレビを消して立ち上がった。
ちょっと探してみるわ。
出てからもう2時間は経ってるし。
来る?
一緒に行くことにした。外には雲が出始めていた。所長が元気だったら、雲の変化を見て面白がっただろう。私と結城さんはまず、畑野道を抜け、草原の広い、果てしない道を真っ直ぐ進んだ。所長の姿は見当たらなかった。
結城さんの姿はやっぱり目立っていて、草だらけの風景の中では浮いていた。自然の色の中に蛍光色を垂らしてしまったみたいに。少し後ろを歩いていると、前方に熱を感じる。
結城さんの背中。細長い手足。
それを自分のものにしたいと思うのは、悪いことだろうか?
いや、そうではないはずだ。
だめ。そんなこと考えちゃ。
また奈々子さんの声がした。私はそれを無視した。歩く速度を早めて、結城さんに近寄った。
所長、いませんね。
こっちの道じゃなくて林の方行ったかな。
でもあいつが学校とか町に近づきたがるとは思えない。
行くとしたら山なんだけど。
橋本が出たんじゃないですか?
ヨギナミの家に行きます?
いや、俺、
あそこの奥さんにはすっげ〜嫌われてんだよね。
結城さんは前を向いたまま、こっちを見てくれない。歩いて歩いて歩いて、『クマ注意』の看板まで行ってしまった。山の入口だ。
まさかこの先までは行ってないよな?
冬はこの奥まで行きましたよ。花見のときも。
今はダメなんだよ。俺、熊と戦いたくないわ。
帰ろう。
結城さんはもと来た道を引き返し始めた。日光が草原を輝かせて、とてもきれい。見るべき景色があるのに、所長はどこに行ったんだろう?私は、結城さんの背中を見つめながら研究所に帰った。
所長は戻って来ていた。
ソファーで仰向けに眠っていて、お腹の上にかま猫が丸まっていた。その様子があまりにもかわいらしいので、写真を撮りたくなったが、
さ、細菌が!
結城さんが叫ぶと同時に、かま猫がこちらに走って来た。結城さんは2階に逃げていき、かま猫は後を追っていった。
私は眠ってる所長の顔をのぞいた。なんだかすごく安らかに眠ってるっぽい。起こさないほうがいいなと思って、こっそり写真撮ってから帰った。
昼間は勉強したり、動画や音楽で雑に過ごした。
夕食を終えて部屋に戻ったら、また奈々子さんが出てきた。
結城に近寄らないほうがいいよ、本当に。
奈々子さんは真面目な顔で言った。
理由は?
遊び人だから。
いろんな女の人に手を出してすぐ捨てるの。
昔からそうなの。
それは若い頃の話でしょ?
人ってそんなに変わるものじゃないと思う。
あなたも捨てられたんですか?
私はナギとは付き合ってない。
好きでもなかった。
奈々子さんははっきりと言った。
私は驚いた。
でも、ナギが私のことを気にしてたのは知ってる。
恋愛感情ではないかもしれない。
音楽やってると、互いの才能に嫉妬し合うことがよくあるから、そういうのかもしれない。
だから私怖いんだってば、もしあいつが──。
奈々子さんはそこで口ごもり、目線を横にそらした。気まずそうに。
もし、何?
遊び半分であなたに手を出すんじゃないかって。
なるほど。
でもそれ、あなたが心配することじゃなくないですか?私の人生のことでしょ?あまり口出ししないでほしいんですけど。
それに、あなた、
本当は存在しちゃいけない人ですよね?
私ははっきりそう言った。
奈々子さんは悲しい顔をして、
ごめん。もう言わない。
と言うと、ふっと消えてしまった。私はしばらく気分が落ち着かず、部屋の中をうろうろ歩き回ったり、ベッドや枕を叩いたりして、しまいにはまたコーヒーを飲んだ。
ああ、今日も眠れない。
それにしても奈々子さん。
本当に結城さんのこと好きじゃなかったのか?
怪しい。
『互いの才能に嫉妬し合う』って何だろう?確かに結城さん、奈々子さんのことを、歌はプロだって言ってたけど。
気になる。
私はそれから、草原で見つめ続けた結城さんの後ろ姿を思い出してボーッとした。
あの背中に抱きついてみたいと思った。
でも、嫌がられたら悲しいから実行は出来ない。
今は。




