2016.9.18 日曜日 草原の道 高谷修平
肌寒い朝だった。修平はコートを着ていた。部屋のドアの前で早紀が『早くしろ』と叫んだ。気が立っているのが声でわかった。
「サキさあ、少し落ち着こうよ」
修平はつい言ってしまった。
「見るからにムカついてる感じで怖いって。久方さんにも言われたんだろ?橋本にきついこと言うなって」
「わかってますよそれくらい」
早紀は不機嫌な声で言いながら、足音が聞こえそうなくらい荒い歩き方で前を進んでいく。修平はもめごとを予感しながらその後を追った。
草原を進んでいくうちに、早紀の隣に人影が浮かび上がった。長い髪に紺色のジャケット。奈々子だった。
『サキ。落ち着いて。気を静めなさい。じゃないと、私が乗っとるよ?』
奈々子が言った。早紀が怖い目で奈々子を見た。
「幽霊から見ても怒って見えてるってことだよね〜」
修平は軽く言った。早紀は無視して前に進み続けた。
ヨギナミの家へ続く道の真ん中で、早紀、修平、奈々子、そして、あとから出てきた新道先生の4人は、橋本が来るのを待った。
『先生』
奈々子が新道先生に言った。
『怖くないですか?』
『怖いですね』
新道先生が言った。
「怖い?何が?」
修平が尋ねた。
『現実を直視することですよ』
新道先生が真面目に言った。
『失敗を認めることです』
「失敗?」
「あ!来た!」
早紀が叫び、草原の向こうを指さした。小さな人影がこちらに近づいて来ていた。久方の隣に、同じ動きで浮かび上がる赤い髪の男。
橋本は本当にやってきた。
「来ると思ったよ」
橋本が4人をざっと見て言った。
「聞きたいことがあるんです」
修平が言った。
「お前らの知りたいことは、俺は何も知らねえぞ」
橋本が言った。
「初島がどこにいるかは、俺も知らない。どうしてこんなことになってるか?それは俺達だって知りたいことだ。でもわからない。何も教えられることはない。帰ってくれや」
橋本はそう言って前に進もうとしたが、早紀に行く手をはばまれた。
「母が言ってました。あなたが落ちてきた時、上の階にショートカットの女がいたって。あなたは突き落とされたの?それとも自分で落ちたの?」
橋本はこの問いにひるんで、一歩後ろに下がった。
『それは、俺も知りたいと思っていた』
新道先生が低い声を発した。修平は驚いて先生を見た。いつも敬語でしゃべっている先生が、自分のことを『俺』と言うのを今初めて聞いたからだ。
『俺だけじゃない。ナホちゃんも菅谷も、お父さんも、残されたみんなが思っているはずだ。お前はなぜ死んだのか。18年前は聞く前にいなくなってしまった。今度こそ教えてほしい』
橋本は新道先生を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「初島が突き落としたんですか?」
修平が尋ねた。
「違う」
橋本はきつく目を閉じ、頭を小さく左右に振った。痛みを感じているように見えた。
「じゃ、やっぱり自殺なの?」
早紀がきつい声で尋ねた。
「そう思いたきゃそう思ってろよ」
橋本は目元を歪めて顔を横に向けながら、いらついた声を上げた。
「お前らに説明してもわからねえよ。これは、俺にしかわからないことだ。他人にわかることじゃないんだ。何でもかんでも聞き出そうとするんじゃねえよ。本人にしか理解できないことがあるんだよ」
橋本は早紀をよけて先に進もうとした。しかし、
『なぜ、今も創くんの体を操ってるんだ?』
新道先生が声を発した。橋本は立ち止まった。
『虐待から逃げていた幼い頃ならともかく、今はそんなことをする必要はないはずだ。なぜ今になってそんなことを始めた?北海道に戻って来て懐かしくなったからなんて言うなよ?わかっているはずだろう?お前がそうやって体を使えば使うほど、創くん本人には関係のない記憶や体感がその体に積み残る。それが、体の本来の持ち主の感覚や人生を侵食して、いずれ壊してしまう』
声には悲しみの響きがあった。お前はそんなことをする人間ではないはずだ。新道先生はそう言いたいのだ。修平にはそれが伝わってきた。
「そうです!そうですよ!」
早紀が叫んだ。
「あなたは所長の人生を奪ってるんです!所長はもう十分変になってるんですよ!?あなたのせいで!」
『サキ、ちょっと落ち着いて』
奈々子が早紀を止めようとした。しかし早紀はなおも言い続けた。
「今すぐ所長を返してください。所長は今どこにいるんですか?本当は私と会ったり、自分のために使うための日曜日を、あなたが奪ってる。もうやめてくださいこんなこと!ああ!もう!見ていられない!」
「サキ、大丈夫?」
修平が尋ねたが、早紀は草原にしゃがみこんで下を向いてしまった。
『信じられない』
今度は奈々子が言葉を発した。
『18年前のあの時から、創くんとあんたはずっと、こんな状態で暮らしていたっていうの?互いの存在を呪い合って?』
橋本は何も言わなかった。ただそこに立って、みんながわめくのを聞いていた。
『こんなことになるんなら、あなたを行かせなければよかった』
奈々子が言った。
『初島を殺してでも、札幌に引き止めればよかった』
奈々子がつぶやき、早紀が驚いて顔を上げた。
『神崎さん。それは不可能ですし、よくないことですよ』
新道先生は奈々子をたしなめるように優しく言ってから、橋本に向き直った。
『今すぐやめるんだ。創くんの体を使うのは。いいか、俺は絶対に修平君の体を使ったりしない。神崎さんも出来るだけ自分を抑えてくれている。お前に同じことが出来ないはずはない。いや、絶対にやらなくてはいけないんだ。わかってるだろう?本来俺達は、この時代に存在してはいけない』
「ああ、わかってるよ」
橋本が言った。
『死者は生者に関与すべきではない』
新道先生が続けた。
『創くんに関わるべきなのはお前じゃない。修平君や新橋さんだ』
「え?俺?」
修平が先生を見た。
『そう。つまり生きている者だ。残念ながら、俺達はこんな形で生きた若者に取りついてしまっていて、消える方法が見つからない。出来ることは1つ。生きている者に与える悪い影響を出来るだけ少なくすること。そうだろう?』
「そんなに簡単じゃない」
橋本がつぶやいた。
「俺には出来ない」
そして、草原を歩き始めた。ヨギナミの家に向かって。
「まだ続けるの?みんながこれだけ言ってんのに?」
早紀が叫んで、橋本を追いかけようとしたが、
『新橋さん。今日はここまでにしましょう』
新道先生がそう言い、修平が早紀を止めた。新道先生の口調はいつも通りに戻っていたが、表情は険しいままだった。
『悔しい』
奈々子がつぶやいたかと思うと、空中にかき消えた。
『わかります』
新道先生も言った。
『申し訳ない。私達の失敗に君達を巻き込んでしまったようだ』
「だから先生のせいじゃないって。前から言ってるだろ?」
修平がうんざりした顔で言った。この手の謝罪には前から手を焼いていた。
「少なくとも奈々子さんとあなたは、所長を助けようとした」
早紀がつぶやきながら立ち上がった。
「だけど橋本は、進んで所長の人生をぶち壊してるとしか思えない」
『進んで、ではありませんよ。仕方なくといったところでしょう』
「私もう帰ります。ごめんなさい」
早紀は顔を伏せながら、早足で草原の道を歩いて行った。
「結局、あいつがなんで死んだかわからなかったね」
修平が言った。
『よほど話したくないんでしょうね』
新道先生が悲しげに下を向いた。
「俺らも帰ろう。今日寒い。これ以上ここにいたら俺また熱出すよ絶対」
修平は歩きながら新道先生に笑いかけた。
「先生が『俺』って言うの、なんか新鮮だな〜!」
わざと明るい声で言った。
「もう俺と話すときも、あの感じでタメでいいよ」
『いや、それは無理なんですよ。修平君』
新道先生が弱ったような笑みを浮かべた。
「なんで?」
『辛いからです』
「辛い?」
『人は『子供は素のままでいられるから楽でいい』と思考えがちです。しかし、それは違います。素のままで他人とぶつかるのは辛いことなんです。もろに衝撃を受けてしまう。だから子供たちは傷ついて悩むんですよ。素のままでしか生きられないというのは、非常に苦痛なんです。創くんや橋本なんかがまさにそのタイプでしょう。私も昔はそうでしたからよくわかります。大人になると職業や肩書き、立場が仮面となり、盾になる。そういう面もあるんです。大人の方が生きるのは楽だ。しかし子供は、いや、大人になっても創くんのような人達は、そういう武器を持っていない』
新道先生はそこで言葉を切り、いたずらをする子供のような目で修平を見た。
『私は教師をやっているほうが気が楽ですし、余計なことを考えずに済むんです。ですから、君といる間は、お気楽な『先生』でいさせてください』
「なんかよくわかんないけど、いいよ」
『ありがとう。ところで修平君』
「何?」
『伊藤さんが使っている仮面に気づきませんか?』
「伊藤?あ〜」
修平はすぐに気づいた。
「伝説の図書委員長」
『そうです。それが彼女が使っている仮面です』
「その方が楽だから?」
「だと思います。君も素でばかり人とぶつかっていないで、少しは仮面や盾の使い方を覚えたらどうです?」
「図書委員とか?」
『そうです。他にも考えようによってはいくらでもあります』
「例えば?」
『学校の先生が好きなのは『優等生』とか『礼儀正しい若者』でしょうね』
「うわなんか嫌だなそれ」
修平と新道先生は、見えない武器の話をしながら、風の強い草原の道を通り抜けて行った。途中で雨が降り出したので、修平は慌てて走った。
アパートに着いた時、新道先生の姿はなくなっていた。




