2016.9.17 1998年
奈々子は、家族が大嫌いだった。
きつい性格の母、母親そっくりの性格の悪い妹、気の弱い父親。家では常に母親の怒鳴り声が響く。
奈々子は小学生の頃から、『なるべく家にいないようにする』を自己ルールとして行動していた。朝、学校に早く行きすぎて校門が開いておらず、座って待っていたら、あとから来た用務員さんに『危ないからもっと遅く来なさい』と注意された。子供の誘拐や行方不明がニュースによく出るようになった頃だった。小学4年のとき、友達がいじめで転校した。それがきっかけで、古本屋に入り浸って、教育の本、特に、いじめや非行少年・少女の話をむさぼるように読むようになった。性的虐待、暴力、いじめ、自殺。世の中では恐ろしいことがあちこちで起きていると知った。それで、中学を出る頃には、人間嫌いになっていた。
高校はわざと遠い所を選んだ。地下鉄とバスを乗り継いで通うことになった。定期を使えば大通で途中下車できた。つまり、タダで中心部まで行けるようになったのだ。
こうして奈々子は大通をさまよう人となり、狸小路周辺をよく歩くようになった。家に帰る時間を、できるだけ遅くするために。
ある日、アミューズでCDをあさっていた時だった。お目当てのpre-schoolのアルバムが見つかり、奈々子は喜んで手を伸ばした。すると、別な所から伸びてきた手に爪が当たった。
「いてっ!」
声の主は、染め方が下手な金髪の、優しそうな顔の男の子だった。
「あっ!すみません!──あれっ?」
奈々子はその男の子に見覚えがあった。
「修二さんじゃないですか?こないだ路上で歌ってた」
奈々子は夜の狸小路で、彼が歌っているのを聴いたことがあった。
「ああ、あれ聴いてくれてたのか」
修二が笑った。
「もしかしてpre-school好きなんですか?うわぁ、私しか知らないバンドだと思ってたのに!」
「音楽やってるやつはけっこう知ってると思うけど」
「でもインディーズですよね」
「インディーズの方が上質な曲作ってるよ、今は」
「ですよね。わかります」
「そのCD、買ったら俺に貸して」
「譲ってくれるんですか!?わかりました!」
奈々子はその後、この修二という男が、自分を痴漢男から助けてくれたユエさんの恋人だと知ることになった。ユエさんは奈々子を気に入り、めずらしく昼間起きている時は食事に連れて行ったりした。不二家で、学校では聞けないきわどい話や、『あのへんの黒ガラスには気をつけろ』『あの道は通っちゃいけない』などの安全情報を聞かせてくれた。ユエさんは、奈々子が変な世界に転がり込まないようにと気を使っていた。この時代、『援助交際』なんていうゲスな言葉が流行っていて、汚いおじさん達が女子高生に『君いくら?』と声をかける光景が日本中で見られたのだった。奈々子はそういった行為の一切を軽蔑していたし、インターネットはまだなかったが、本だけは読みすぎたせいで、性犯罪に巻き込まれると女の人生がいかに悲惨になるかはよ〜く知っていた。
親との関係は年を重ねるごとに悪くなっていった。母親はとにかく、自分に似た妹しかかわいがらないし、奈々子のことは出来損ないと面と向かって言い、学費と声楽のレッスン代を出す以外は存在をほぼ無視していた。気の弱い父親は何も言わなかった。奈々子は家に寄り付かなくなっていった。変なおじさんにさえ捕まらなければ、札幌の夜の空気、それこそがホームだった。
創成川、日が沈む頃。
明かりがつき始める。
人通りが変わる。
日常のど真ん中にいるのに、無限を感じる。
俗っぽい繁華街がすぐ近くにあるのに、
札幌の夜の空気はいつだって清浄で、
遠い何かを喚起する。
それは奈々子だけが特別に感じたわけではないだろう。これだけの人がいるのだから。少なくとも、修二とユエさんはこの感じを知っている。
奈々子は二人に出会えたことを幸運に思っていた。
自分の人生で起きたいいことは、それだけのようにも思えた。




