2016.9.11 日曜日 ヨギナミの家
『愛嬌と云うのはね、──自分より強いものを斃す柔かい武器だよ』
橋本はヨギナミの家で、夏目漱石の『虞美人草』を見ていた。なぜか、キッチンのテーブルに置きっぱなしになっていた。杉浦とかいう奴に借りたのだろうか。もう少し読みやすいものを勧めたらどうかとも思った。ヨギナミはこれから試験勉強をしなくてはいけない。しかもバイトをして、母親の面倒も見ながら。こんな本を読んでいる場合ではないはずだ。
自分の好みを人に押しつける奴は迷惑だ。
他人の時間に限りがあることに気づいていない。
自分の時間は惜しむくせに。
そう思いながらも、橋本は懐かしいその文面を見ずにいられなかった。
あさみは眠っていた。具合がよくないようだった。
橋本も調子がよくなかった。創が初島のことを思い出したせいで、体のバランスが崩れたのだ。
母なる大地に存在を拒否された。
地上に居場所を失った。
初島の術中に再びはまってしまったのだ。
しかも自ら進んで。
体が常に緊張でこわばっている。息も苦しい。
それは自分のせいで起きた。橋本はそれを知っていた。
もうこんなことはやめた方がいい。
でも。
本をめくった。『愛嬌』という言葉で思い出すのはまず根岸菜穂、それから新道隆だった。全く!あの2人は取り柄が愛嬌しかないやつらだった。他のことはなんにもできやしなかった。
なのに──いつも幸せそうだった。
橋本は本を閉じて暗い顔をした。そんなことを思い出しても仕方がない。あれはもう30年以上前のことなのだ。
布がこすれる音がした。あさみが起き上がっていた。珍しくベッドから出ようとしている。
どうした?
外に出てみたいの。
あさみが言いながら立ち上がろうとして、よろけた。橋本は慌てて支えた。こんなことを言い出すのは初めてだった。
今朝は雨が降っていたけど、もう晴れたでしょう。
あさみが、弱々しい声ながらも、笑みとともにそう言った。2人はゆっくりと、支え合いながらドアに向かい、外に出た。あさみは靴を履くとき少し手間取った。久しぶりだったからだ。
目の前に草原が広がっている。雨がやんだ後で、多彩な形をした雲が、強い風に乗って空を流れていく。草は雨露と日の光を浴びて一面に輝いている。
あさみはしばらく立ち止まってその光景をじっと見ていた。表情はなかった。喜びもない代わりに、いつも口にする不満や不安も消えたようだった。しかし。
果てしないって、怖いことよね。
あさみは小さくつぶやいた。
どこまで行っても果てがない。
底なし沼よ。この草原は。
草原には終わりがあるだろ。
進んでいけば町に着く。
行けない町なんてないも同じでしょう。
あさみは動かない。地平線を見ているのか、何か違う光景を見ているのか、いや、どちらにしても自分には同じことだ。橋本は思った。俺はもう生きてはいない。町に行ったとしても、人々が見るのは創の姿であって、俺じゃない。自分はもうここにはいない。どこにもいないのだ。
あなた、そこにいるわよね?
あさみが突然言った。向こうを眺めたまま。橋本は驚いて彼女を見た。
久方さんじゃないわよ。
中にいるあなたのことを言っているのよ。
言いながら、あさみはゆっくりと振り向いた。
笑っていた。
珍しく、心の底から出た笑みを浮かべていた。
ああ。
橋本も笑顔を作った。これは俺の顔じゃないと思いながらも。
戻りましょう。
あさみが橋本の手を取った。
2人は一緒に家の中に戻っていった。
お母さんが外に出たの?ほんとに?
バイトから帰って来たヨギナミは、目を丸くして驚いていた。あさみは眠っていた。
スギママとか平岸ママが来た時は外に出ることあるけど、1人で出たがることなんてなかったのに。
あ、でも、おっさんがいたから1人じゃないか。
ヨギナミが笑いかけて来たので、橋本もつられて笑った。しかし、心の奥で何かが引っかかっていた。
いや、心じゃない。後ろだ。
後ろに久方創がいて、ずっと自分を見つめているのだ。
ヨギナミは、杉浦や先輩たちが公務員試験の問題集を譲ってくれるという話を、嬉しそうにしていた。橋本はそれを聞きながら、後ろから絶えず自分の背中(これだって創のものだ、本当は)に刺さって来る視線を感じていた。
やっぱり、
生きているのは僕じゃない方がいいんじゃないかな。
そんなつぶやきが聞こえて来そうだった。
違う。それは違うんだ。
橋本は心の中で言った。だけど、今自分がやっていることと矛盾していることも自覚していた。
今、自分は、創の人生を奪っているのだ。
彼はそのことを、片時も忘れたことはなかった。




