2016.9.9 金曜日 図書室 高谷修平 伊藤百合
伊藤は図書室のカウンターで、外山滋比古の『乱読のセレンディピティ』を読んでいた。それにはこう書いてあった。
『新刊は新しすぎる。古本は古い。ちょうど読みごろの出版後五、六年という本は手に入れることもままならない。図書館はここで役に立つ』
伊藤はこの箇所を読んでニヤニヤしていた。そう、図書室は役に立つのだ。しかし、その後の『知的信仰の危うさ』の所まで行って、自分も気をつけようと思った。本を読むのは必ずしも良いことだけではないと、その本には書いてあるのだ。
頬杖をついて考え込んでいると、高谷修平がやってきた。いつものようにカウンターの前に来て、
「幽霊の話聞きたい?」
と言って笑った。
「図書室の私語は禁止なんだけど」
伊藤が言ってから、急に小声で、
「新橋さんが佐加としゃべってるのが聞こえた。所長さんが眠ったまま目を覚まさないって」
と言った。珍しい。伊藤が自ら噂話に乗ってきた。
「昨日無事に目覚めたらしいよ」
「そうなの?良かった」
「先生が久方を追い出した話、聞きたい?」
修平は新道先生から聞いた昨日の出来事を話した。
「なんだかおとぎ話みたいに聞こえるけど」
伊藤が腕を組みながら言った。
「おとぎ話だと思っていいよ」
修平は少し弱ったような笑い方をした。
「でも悪い話じゃないよね」
「そうね。先生の言ってることは正しいし。でも久方さん、なんだか、自殺しようとしているように聞こえるけど大丈夫なの?」
「だから結城とかサキが見張ってるんだって。今は保坂もあそこにいるし」
「保坂ね」
そうだ、その問題もあった。伊藤はまた考え込んだ。スマコンに聞いた話だと、保坂の母親の症状は良くなるどころか悪くなる一方で、まだ『あの女を殺す』と言っているらしい。父親も何をするかわからない。しばらく家には帰らない方がいいだろう。しかし、そんな大変な保坂が、伊藤はうらやましかった。
「所長さんの所に住んでるんだよね?」
「そうそう。食事もちゃんと出てタダ。ピアノうるさいし、幽霊も出るけどね」
「いいなあ」
伊藤はつぶやいた。自分もそこに泊まりたい。母と弟が怒鳴り散らして物を破壊している家には帰りたくない。
「いいなあって何?」
「なんか楽しそうじゃない?」
「なんで女子はみんなそう言うかなあ。サキも『私も研究所に泊まりたい』って言って平岸家のみんなに怒られてたし、佐加もスマコンも行きたいって言うんだよね。なんで?」
「みんな家に帰りたくないんじゃない?」
「伊藤も?」
「図書室の方が面白いから」
伊藤は少し嫌そうな顔をした。家のことは話したくないんだろうなと修平は思った。
「もうすぐ修学旅行だけど、第3は行きたい所とか決めてる?」
「え?俺らみんなやる気ないよ。全然話してない」
「少しは相談しなさいよ」
「第2は何すんの?」
「長崎が一番楽しみ。平和公園とグラバー園は行く。でも、大浦天主堂には絶対行かなきゃいけないし、一泊しかないからあまり郊外には行けない」
「そうか」
「長崎は坂が多いけど大丈夫?」
「坂?」
修平はまずいと思いつつ、平気を装った。
「あんま俺に気を使わないでくれない?」
「あのね、普通の人でも腰痛になるくらいきつい坂が多いの」
伊藤は真面目な顔で言った。
「そういうことは心配しなくていいよ。いざとなったら置いて行ってくれればいいし」
今度は修平が話すのを嫌がる番だった。
「そう」
伊藤は何かを察知したのか、また後ろの棚から、タッシェン社の『ロックウェル』を出して眺め始めた。フランス・ハルスに美女の絵にロックウェル。伊藤は、表情豊かな人物画が好きなのだろうか?修平はしばらく彼女をじっと見て、何も言わないのがわかると席を立って、また本棚を見て回った。また宇宙の棚に植物図鑑が入っていたので元に戻した。同じ奴の仕業だなと思った。
体調のことを心配されるのは嫌だ。でも、先生のことを話せるようになったのはいいことかもしれない。修平は思った。病院では誰も信じてくれなかったし、親も未だに半信半疑な所がある。一度、重い症状から持ち直した時、そばに先生がいた話をしたら、母ユエは『観音様の使いかもしれない』と言って熱心にお参りに行くようになってしまった。
とにかく、伊藤と話せるのはいいことだ。でも、肝心の伊藤本人の話が聞けていない。修学旅行に期待しよう。
「また良からぬことを考えていたわね?」
スマコンが背後に現れた。もう慣れたので修平は驚かなかった。振り返って余裕の笑みを返した。
「まあ!生意気ですこと!旅行中に伊藤に手を出そうとしても無駄よ?第2グループが全力でお邪魔しますから」
「でもみんな行き先は同じだよね?」
「長崎は神聖な場所ですから、まあ、仕方がないわ。ご存知?わたくしの母は長崎生まれなのよ?」
「へ〜」
修平はどうでもいい返事を返した。
「つまり宇宙の全ては長崎から生まれたことになるわ。少なくともわたくしにとってはね」
「スマコンがよく言う宇宙って何なの?」
「この世の全てよ。人も、物も、大地も、時間も、人の心も」
スマコンは言いながら去り、また伊藤に声をかけて帰って行った。
「人の心ね」
修平はつぶやきながら本棚の点検を再開した。先生が久方に会ったという『心の底』─生者は行けない場所─に、自分もいつか行くことになるのだろうか。
カウンターに戻ると、伊藤はまだ『ロックウェル』を見ていた。
「それ、好きなの?」
「うちにも小さな四角い画集がある」
伊藤は本から目を話さずに言った。
「面白いの。男の子がダンベルを持って、筋肉質で強そうな男の絵をじっと見てる絵があるんだけど、それ、描かれたのは1930年くらいなんだよね。今でも筋トレしてる人っがたくさんいるじゃない?マンガに出てくるような割れた腹筋に憧れて。90年前から、人のやることは変わってないんだなって」
「ふ〜ん」
「他の絵もみんな、今でもあるなこういうのっていう場面を、昔の雰囲気で見れる」
「へ〜」
「高谷、絵はあんまり好きじゃないでしょう?」
伊藤が顔を上げて修平をにらんだ。
「いや、好きだけど、あんまり画集とか見たことなかったんだよね」
「じゃあ、これからじっくり見てください。図書委員なんですから」
伊藤は偉そうに言って、また『ロックウェル』に目を戻した。修平は言われた通りに美術の棚に行き、背表紙の画家の名前をじっくりと見て、どれを手にしたらよいか迷った。しばらく棚のあたりをうろついたあと、カウンターに戻って、
「その本貸して」
と言った。伊藤は上目遣いで修平を見ると、素早く手続きをして、『ロックウェル』を修平に渡した。




