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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年9月

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2016.9.8 木曜日 どこかの森の中

 久方創は、森の中を歩いていた。いや、『浮遊していた』と言った方がいいかもしれない。いつも歩いていたあの森によく似た場所だ。だが、モノクロ映画のように色彩を欠き、空気というものが感じられなかった。足元の感覚もない。地面から跳ね返ってくるあの感触がまるでない。自分は本当に歩いているのだろうか。久方は疑問に思った。でも視界は進んでいく。進んでも進んでも、そこは道なき森の中だ。迷ったのか。そもそもなぜここに入ってしまったのか、それもわからない。


 おや?


 人の声がした。久方は止まり、声がした方を向いた。

 そこには、長身の、眼鏡をかけた、どこかで見たようなスーツ姿の男が立っていた。


 誰かと思ったら、創くんじゃないですか。

 いや、久方さんと呼んだ方がいいのでしょうか。


 それは、高谷修平に取りついているはずの新道先生だった。


 あのう。


 久方は控えめに尋ねた。


 ここはどこですか?


 ここですか?言葉で説明するのは難しいのですが、あえて言うなれば、人間の心の一番底の部分です。


 心の底。


 ブラームスの合唱曲のようだと久方は思った。

 深い深い心の底。


 しかしおかしいですね。ここは生者が来られる所ではない。なぜあなたが来てしまったのですか?


 あなたはここで何をしているんですか?


 答えたくない久方は逆に聞き返した。


 休憩中です。


 新道先生はにっこりと笑った。


 休憩中?


 修平君も私も、一人になりたい時があります。幸い、私は生前から特殊な力を持っているので、ここに来ることが出来るのです。残念ながら、橋本や神崎さんにはこの手が使えないので、一人になりたくてもなれずに苦労しているのでしょう。


 そうですか。


 久方は沈んだ顔で言った。


 でも、橋本はもう一人ですよ。僕が体を返したから。


 何ですって?


 あの体はもともと橋本のものだったんだ。


 久方は言った。


 なのに、僕は忘れてたんです。なぜかまわりに守られていたから。でも、やっと思い出したんです。だから体は彼に返しました。僕はもう戻りません。


 それは間違っていますね。


 新道先生はきっぱりと言った。


 でも、そうなんです。


 久方は下を向いてつぶやいた。


 いいえ、それは100%間違っています。テストだったら赤ペンで大きくバツ印をつけるところです。よろしい、私は教師だ。間違いを正す義務がある。


 新道先生が厳しい表情になった。


 僕は間違ってない。


 いいえ、大間違いです。優しくなだめる気にもならないくらい、基本的な所を誤っています。

 人は生まれてきた以上、

 理由があろうがなかろうが生きていていいのです。

 存在していてもいいのです。

 そんなのは当たり前のことですよ。

 あなたの体は生まれた時からあなたのものです。厳密に言うと、自分の体でも自分の思い通りになるわけではありませんが、その話は置いておきましょう。久方さん、あれは間違いなくあなたの体です。たまたま何かを勘違いしたお母様が、別な人に譲り渡そうとした。それだけのことです。そんなことは本来不可能ですし、橋本も望んでいませんよ。


 あなたは僕の母さんを知ってる。


 ええ。少なくともあなたよりはよく知っていますよ。


 新道先生の言い方はやや挑発的だった。


 正直に申し上げます。初島は元から正気ではありません。あなたは狂った人に間違った教えを吹き込まれたんです。子供は親の言うことを聞こうとする。無理もない。そうしないと生存できないですからね。でも、初島の言ったことは全て間違っています。


 久方は傷ついた表情をしながらも黙っていた。


 それに、みんながあなたを心配していますよ。


 新道先生がまた笑みに戻った。


 先ほど、修平君は新橋さんと一緒に橋本に会ったのです。しかし、あなたが戻らないと知って、新橋さんはそりゃあもうひどい剣幕で橋本に怒鳴り散らして、修平君が止めなかったらつかみかかっていたかもしれませんよ?そのおかげで、今、修平君は具合が悪いと言っていますが。


 サキ君が……。


 久方の意識の中に、暖かい何かが灯り始めた。戻る理由があるとしたら早紀の存在だけだ、今のところは。


 橋本もだいぶ参っていますので、早く戻っていただけませんか?


 でも。


 ご自分で戻る気がないなら、私が強制送還しますよ?


 えっ?


 久方が新道先生を見ると、彼は右手を軽く上に上げた。動きのない世界に突如、風が生まれた。その風は久方を取り巻き、足元が宙に浮いた。


 ちょっと!待って!!


 久方は叫んだ。


 今日のことはまあ、一時の気の迷いだと思えばいいんです。


 新道先生はにっこりと笑った。


 ダメですよ!僕は──。


 聞き分けのない生徒ですねえ。


 新道先生はやや意地悪な言い方をした。


 お家に帰ってから、ゆっくり反省してください。


 風が、久方を上空まで吹き飛ばした。視界のはるか向こうに森に覆われた地平線が見え、風景はその後空に変わり、久方は高く舞い上がったかと思うと、今度は黒くて暗い何かに勢いよく落ちていった。











 暗闇は、見慣れた天井に変わった。色彩が戻って来た。久方はいつの間にか、自分の部屋のベッドに横たわっていた。黒ずんだ白の壁、フェザーザップのポスター。天井の隅には蜘蛛の巣が新たに出来ている。窓からは強い西日が射し込んでいる。

 眩しい。

 久方は半分目を閉じながら起き上がった。ベッドのきしむ音と跳ねる感触。自分の手を見た。関節に張るような何かを感じた。肩は固まっている。ゆっくりと動かしてみた。かなりこっているようだ。遠くからかすかに誰かの話し声がする。久方はそっとベッドから降り、足の裏で床の固さを確かめるように足踏みした。

 

 どうやら、本当に強制送還されてしまったようだ。

 現実の、生きた者の世界に。


 久方は部屋を出て、階段を降り始めた。足音を聞いて、早紀が部屋から飛び出して来た。目に涙をいっぱいためて。久方が下まで降りるのと同時に、早紀が飛びついてきた。早紀は久方をきつく抱きしめて、声を上げて泣き始めた。体の熱と息づかいが、直に伝わってきた。部屋からは結城と、保坂と、奈良崎と高条まで出てきた。その面々を見て、久方は今日が木曜日だということに気づいた。


 サキ君、泣かないで。


 久方は早紀の背中に手を回して、抱きしめ返した。


 僕はもう大丈夫だから。


 何が大丈夫なのかは自分でもわからなかった。本当は、ここにいてはいけないような気がまだしていた。でも久方は、早紀が泣くのを見たくなかった。だからわざと元気そうに振る舞った。部屋に入り、コーヒーを飲み、男子高校生たちの冗談には笑って見せた。


 みんなが無事に帰ったあと、結城がどこからか買ってきた安い弁当を残さず食べた。結城が保坂と一緒に2階に上がった後、たまっている入力を片付け始めた。外からは台風の風が窓を揺らす音。


 風。


 僕をこの世界に戻したあの風は何だったんだろう?


 久方は考えた。さっき会った新道先生は本人なのか、それとも自分が勝手に見た夢なのか。

 入力を続ける。指先にキーボードの感触がする。肩がまたこり始めた。背中が曲がっているのに気づいて伸ばした。足の位置もなかなか定まらない。あらゆる感覚が、一気に自分の手に戻って来た。全てが初めて感じることのようだった。

 久方はこの日、日付が変わるまで起きていた。


 

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