2016.9.6 火曜日 研究所
おい!起きろ!大丈夫か?
久方は、助手の声で目を覚ました。彼だけでなく、保坂まで部屋に来て、心配そうに久方をのぞきこんでいた。久方は起き上がってから、自分が泣いていたことに気づいた。
寝ながら泣きわめいてるから何事かと思ったぞ。
今日の朝飯は俺が作るわ。
助手は部屋を出て行ったが、保坂は久方をじっと見たまま止まっていた。
大丈夫だよ。怖い夢を見ただけだから。
久方は無理やり笑おうとしたが、上手く行かなかった。保坂はやや疑いを持った顔で部屋を出て行った。
今のは、本当に起きたことなんだろうか。
『おこがましいのよ。人形のくせに意思を持つなんて』
母親から発せられた恐ろしい台詞。
人形。
確かにそう言った。
そして橋本は逃げ出した。札幌をさまよって、修二の所まで自分を送り届けた。
なんで教えてくれなかったの!?
久方は空中に向かって叫んだ。返事はなかった。
外からは弱い雨の音がしていた。しばらくぼんやりしていると、助手の呼ぶ声がした。朝食は焦げたトーストと、焼きすぎて破裂したソーセージ。唯一まともなオムレツは、たぶん保坂の作だろう。
どんだけヤバい夢見たんすか?
保坂がトーストをかじりながら久方に聞いた。結城は保坂を見て目元を歪めた。久方はぼんやりと考え事をしていたので、
母さんが僕のことを人形って呼んで、腹を蹴ったんだよ。何度も。
夢で見たことをそのまま口にしてしまった。保坂も結城も、久方を見て動きを止めた。
それで、あいつは窓から逃げ出した。
保坂君さ、前に僕に取りついてる奴と話したでしょう?
あいつ、僕を守ってたんだ。さっき初めて知ったよ。
久方は落ち込んだ様子で、朝食に手をつけようとしない。保坂は気まずくパンを噛み、結城はわざとらしくコーヒーに何度も口をつけた。
虐待っすね。
保坂はパンを飲み込んでからつぶやいた。
とりあえずお前朝飯くらい食っとけ。
じゃないと元気出ないって。
結城はそう言ってから、自分のウインナーを勢いよく食べ始めた。
でもよくわからないよ。
久方はなおもぼんやりとつぶやき続けた。
あいつ、僕の体を乗っ取るために存在してるんじゃなかったっけ?
なんで僕を守るの?自分が生き延びるため?
そもそもなんでこんなことになってるの?
考えたってわかんないぞそんなことは。
結城はそう言いながら、久方のウインナーを一本奪った。
なんでこんなことになってるかは、俺も知りたいっす。
保坂がオムレツをかじりながら言った。今度は久方が彼をじっと見る番だった。そうだ、保坂がなぜここにいるかすっかり忘れていた。やばい親のせいだった。
世の中って理不尽だよね。
久方はありきたりな言葉を口にしてから、トーストにバターを塗り始めたが、冷めていたので上手くいかなかった。
世の中じゃないっす。
ごく少数のやばい奴に運悪くぶち当たる、
俺らの運命が理不尽なんすよ。
世の中にはいい人もいっぱいいますから。
保坂が言った。『俺ら』は自分とヨギナミのことか、それとも久方のことか。
久方はトーストを半分だけ食べた。残りの半分は焦げすぎていたので捨てた。
保坂が先に所長から大事な話聞いちゃうんですか?
気に入らないです。す〜ご〜く気に入りません!!
夕方来た早紀に朝の話をしたら、機嫌が悪くなってしまった。
実は今朝また奈々子さんが『聴きたい曲があるの』とか言ってベッドの下からぬっと出てきたんです。出現の仕方がまんま妙子なんですよ。めっちゃ怖いです。それで朝、学校に行くまで、My little Loverの『Hallo again』って曲を一曲リピートされました。
なんで私、幽霊を慰めるために、90年代の懐メロを聴きまくらなくちゃいけないんですかね?
それは大変だったねとしか言いようがなかった。早紀はしばらく奈々子について文句を言っていたが、そのうち落ち着いてきて、
所長、やっぱりお母さんには会わないほうがいいですよ。姿を隠したほうがいいんじゃないですか?またここに来たら大変なことになるかも。
と言った。
会う気はないよ。
人を人形呼ばわりする人なんか。
久方はそう言って笑い、早紀を散歩に誘った。
外は晴れていた。雨の後の晴れは植物を輝かせる。見逃す手はない。
いつも通りに草原に出かけた。そこまではよかった。雨露で濡れた草木が日光を受けて輝いている。
だけど。
久方は道の真ん中で立ち止まった。
何かがおかしい。
いつもより景色が遠くに感じる。
風の感覚がしない。
サキ君、今、風吹いてるよね?
けっこう強いですねえ。
早紀の髪は大きく横に流れていた。
久方は再び歩き出した。今度は足に力が入らない。2、3歩進んですぐ、久方は道にしゃがみこんだ。
どうしたんですか?
早紀の声が遠くから聞こえた。もっとはっきりした声、いや、強い意志のようなものが、久方の全身をとらえていた。
おこがましいのよ。人形が意思を持つなんて。
その声とともに、久方創の意識は消えた。




