2016.9.6 1998年
初島緑は『人形』をヒール靴で思い切り蹴った。『人形』はうずくまったまま動かない。初島はその服の背をつかみ、壁にぶつけた。『人形』は壁に跳ね返って地面に倒れた。
「出てこないわね」
初島はいらだった様子で言った。
「こうなるとは思わなかったわ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「おこがましいのよ。人形のくせに意思を持つなんて」
そして、八つ当たりのようにもう一度『人形』を蹴ると、冷たい目でにらみ下ろし、それから部屋を出て行った。鍵をかけるガチャッという音がした。
「──バーカ!」
『人形』、いや、橋本がにやけながらつぶやいた。そして起き上がり、体の痛みによろめいて壁に手をついた。
初島は気づいていないのだ。自分が痛めつけている相手が『人形』ではないことに。橋本は『創くん』を強制的に眠らせていた。痛みを感じないようにするためだった。
彼は軽くうめきながら棚をよじのぼり、上側にある窓を開け、そこから外に逃げ出した。初島がこの窓の存在に気づかないはずがない。わざと見逃しているのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。彼は外に出たかった。『創くん』を外に出したくてたまらなかった。
札幌の、薄暗い道を走った。靴も履かずに。創成川を目指して。あそこに奈々子がいるはずだ。もしいなければ、狸小路に高谷修二がいるだろう。警察や、見回りの大人に見つかってはいけない。彼らは非常に愚かで心ない人種なので、夜に子供を見つけると強制で親のもとに帰してしまう。たとえその親が暴力を振るうとんでもないクズであったとしてもだ。
橋本は人目を避けて、中通りを選んで歩いた。それでも、中心部に近づくほど人は増えていく。不審に思う大人がいないことを祈るしかない。
川辺のフェンスが見えてきた。信号を渡ろうとしたとき、
「君、一人で何をしているの?お母さんは?」
誰かが話しかけてきた。橋本は走って逃げた。『お母さん』という単語に体が引きつるのを感じながら。
怖がっているのだ。
たとえ眠っていたとしても。
川から遠ざかってしまった。彼は行き先を狸小路に変えた。
因果なものだ。死んでからもこのいまいましく冷たい札幌から逃れられないなんて。でも、今はそんなことを気にしている場合ではない。橋本はすぐにはアーケードに入らず、一本南に外れた道を歩いて、5丁目に近づいた。いつも修二がいるのはあのあたりだからだ。2丁目のこともあるが。行ってみなければわからない。
4丁目付近は人が多い。この中に補導員がいないことを願うしかない。彼らに捕まると強制で初島のもとに返され、その後に待っているのはすさまじい暴力と暴言だ。
人ごみをぬってアーケードに近づいた。誰かの歌声が聞こえたが、かなり下手だ。これは修二ではない。修二の声はもっと特別だ。何かから逃げていても途中で立ち止まらずにはいられない力を持っている。だから出会えたのだ。
5丁目に入った。修二の姿はない。どうするか?このままアーケードを通って2丁目に行くか。それとも、一度道を外れたほうがいいのか。
「ちょっとボク、どうしたの?迷子?お母さんはぁ?」
妙に甘ったるい声のおばさんが近づいてきた。橋本はまた走って逃げた。
3丁目まで行った時、警備員風の男2人が高校生らしき女の子を止めて指導しているのが目に入った。橋本は気づかれないようにその場を離れ、アーケードから遠ざかった。
疲れてきた。意識がもうろうとする。でも今創と入れ変わったら、パニックを起こして泣き叫ぶかもしれない。そしたら間違いなく警察に捕まってしまう。
くそっ!修二も奈々子もどこに行った?
自分勝手だとはわかっていたが、橋本はあの二人に心で文句を言った。
どこにいやがるんだこんな時に。
「おい、そこの君、ここで何を──」
男の声がうしろから聞こえた。橋本はありったけの力で走り、小さな飲食店の間にあるゴミ箱の後ろに隠れた。体が小さいと、こういう時だけは便利だ。男が近くをうろついて、小さな子供を見なかったかと道行く人に尋ねていた。
「さあ〜知らないっすね」
その声に聞き覚えがあった。橋本はそっと道をのぞき見た。茶髪の、軽そうな、ギターケースを持った少年がいた。修二の仲間だ。たしかベースの、賢治という名前の。
「お〜い、もう怖いおじさんはいなくなったよ」
のんきな声が聞こえた。もう限界だ。橋本は意識を創に譲り渡した。
「何してんだ賢治」
修二の声がした。
「いやあ、お前のファンの少年が怖いおっさんに追われて……うわっ!!」
ゴミ箱の後ろから『創くん』が飛び出して来て、修二の足にしがみついた。そして、声を上げて泣き始めた。
「おう、恐かったな」
修二は優しく笑い、『創くん』の頭をなでた。
「もう大丈夫だ」




