2016.8.31 水曜日 サキの日記
保坂の『クソ親父』(佐加がそう呼んだ)が研究所に来た。私と所長が散歩に行こうとしたちょうどその時に。
めったに鳴らないインターホンの音がしたので、2人でビクッとしてたら、コツコツと固そうな重い靴の音がして、見るからに高価なスーツを着た男性が部屋の前まで来た。細い黒縁の眼鏡をかけていて、面長で、スーツのモデルみたいな、かっこいいと言えなくもないおじさんだった。
保坂典人です。息子が世話になっているようだね。
と言い、笑いながら部屋に入って来た。
それから私の方を見て、
おや?お付き合いしている女性が他にもいたのか。
いやらしい目つきで言った。
君、知ってるのか?この人はね、病気持ちのおばさんにも手を出しているんだよ。
悪意むき出しの言い方だった。私はどうしようか迷った。すると所長が、
僕がその人と付き合ってたら、何だって言うんですか?
突然そう言い出した。見ると、所長は、強気な目で保坂典人をにらんでいた。こんな顔するの初めて見た。
僕は独身の大人です。誰と付き合おうと他人にとやかく言われる筋合いはありません。
お前、あさみが子持ちなのは知ってるだろう。
知ってます。ヨギナミはたまにここに遊びに来ますし、うちの畑の野菜を分けたりしてますよ。この町の人は助けあって生きているので。
少し間をおいてから、所長は冷たい目つきをしてこう言った。
あなた、他人と助け合ったこと、一度もないんじゃないですか?
廊下から足音がした。ドアの所に結城さんがいた。こちらの様子をうかがっているようだった。
ハハッ!減らず口を聞くガキだな!
保坂典人が下品な笑い声をあげた。
この人、気持ち悪い。
私はこんな汚い印象の男を、人生で初めて見たような気がする。学校のいじめっ子もここまでじゃなかった。
この男、人生をかけて、汚さを磨き上げてきたのでは?そんな気がした。これがあのヨギナミと保坂の父親なのか?とても信じられなかった。
だかなあ、あさみにはもう援助なんか必要ないんだ。俺が金を持ってるからな。もうあんたとの縁も切れるさ。女は金に弱いからな。病気だと特にな。
ヨギナミはあなたと一緒に暮らしたいとは思ってませんよ!
私は思わず叫んだ。すると保坂典人は、
小娘なんざぁ、どうでもいい。
とうなるように言った。話し方まで正気じゃない響きになって来た。
女が金に弱いなら、奥さんはなんであんなふうになってしまったんですか?
所長が尋ねた。すると、保坂典人がニターッと笑った。史上最高に気持ち悪い笑い方だった。背筋がぞっとした。思わず後ろに退いた。この男からできるだけ遠くに離れたいと思った。
恵が馬鹿だからさ!ハハッ!ハハハハハ!
男にしては甲高い笑いが部屋に響いた。
愛だと!愛が欲しいんだと!そんなものこの世にあるわけないだろうが!えぇ?お前らもあの馬鹿みたいに花畑で夢でも見てるんだろう?
大人になれよ、なぁ。
そんなものは初めからこの世にありはしない。ないものを勝手に求めて勝手に狂った奴なんぞ俺の知ったことか。
あぁ?
保坂典人が所長につかみかかった。
結城さんが部屋に飛び込んで来て2人を引き離した。
保坂典人はなおも奥さんの悪口をわめき続けていたが、結城さんに建物の外に叩き出された。
今度来たら警察呼ぶぞこの野郎!
結城さんが怒鳴るのが聞こえた。所長はソファーに座り、ぼんやりと宙を見ていた。
お前な、他人の問題に首を突っ込むなよ。
戻って来た結城さんが所長に文句を言った。
よその家のもめごとまで背負いこんでる場合か?
だって、おかしいじゃないか、あんな男が──。
所長が立ち上がって何か言いかけた。でも、すぐ表情が変わって、廊下に飛び出して行ってしまった。階段を駆け上がる足音がした。
やばいなあ。なあ、そう思わない?新橋。
結城さんがソファーにどかっと腰を下ろして言った。
あいつ最近、与儀んとこの家に感情移入しすぎてるっていうかさ、別人みたいな行動をしてるんだよ。
なぜかわかる?
あいつ自分ってのがないんだよ。
だから他人に簡単に心の中に入り込まれる。
危ないんだよ。
幽霊に取りつかれるよりずっと危ないぞ。はぁ〜。
結城さんはうんざりした様子で変な息を吐いてから、いつも通りテレビを見始めた。私は所長の様子を見に行くことにした。
所長は2階の廊下の窓際にいて、外を見ていた。今日は暗い曇りで、今にも雨が降りそうだった。
わからない。自分がわからない。
私が近づくと、所長がつぶやいた。
ヨギナミのお母さんが好きなのは橋本だ。でも、あの人が見てる橋本って、僕の体を使ってる奴でしょう?つまり僕を見てることになるよね。橋本も絶対あの人のこと好きだけど、そう思ってる時に使っているのは僕のこの体で、感覚はそのままこの体に記憶として残ってる。
所長はそこまで言ってから、両手で頭をひっかき始めた。
ああ、わからない。考えれば考えるほどわからなくなる。あいつは僕じゃない。僕もあいつじゃない。でも、同じ体に2人分の体験と記憶がごちゃまぜになってて、僕はそのごちゃまぜの体で僕として生きてる。
ああ、もう。
自分が何言ってるかわからないよ。
私は所長の言葉を聞きながら、いつか私にも同じことが起きるかもしれないと思った。怖い。それはきっと、自分が自分でなくなるような感覚だろう。
私はそんなことしない。
声が聞こえた。あたりを見回したけど、奈々子さんの姿はなかった。
だから、私を刺激しないで。
たまに音楽を聴かせて。
声はそれで終わった。私は所長にそのことを話した。
僕よりましな状態でよかった。
今日はごめん。怖い目にあわせてしまって。
所長が謝る必要はないですよと言っといた。一緒に1階に戻ったら、入れ替わりで結城さんが2階に上がった。そして、ピアノの音がした。
またプロコフィエフだ。
これ、ロミオとジュリエットの5番目かなあ。
本当に選曲が皮肉だよね。
ポット君からコーヒーを受け取りながら所長が言った。それから、2人でさっきのダメキモい男の悪口を言いまくった。ヨギナミが『あんたは父親じゃない』って言うのは当たり前だ。そもそも人間なのかも疑わしいくらいだ。
愛なんてこの世にあるはずがないと確信している男とどうやって暮らすのか。そもそもなんであんな男と付き合う女がいるんだろう?やっぱり金?すごく嫌な話だ。
私は今日のことを平岸家に伝えようかどうかで迷った。やめておいた。夕食の時、
保坂がテントで暮らしてるから食費寄付して。
と修平が言った。あかねは、
あの家金持ちじゃない。
なんであたしが出さなきゃいけないのよ!?
と文句を言った。私は千円出すことにした。
アパートに戻るとき、修平にだけさっきの話をした。
やべえ。
修平は話を聞くと震え声を出した。
完全に狂ってるそいつ。やべえ。保坂もう帰れねえよ。
俺だってそんなのが親だったら家出する。
あ〜!
俺の親が高谷修二とママさんで本当に良かった〜!
言ってることはバカみたいだけどカッパだから仕方がない。私だって、うちのバカと妙子で良かったと思ってしまう。あれを見てしまったら。
ヨギナミと保坂はどうするんだろう。
平岸家で引き取ってくれないかな。




