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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年8月

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2016.8.30 火曜日 図書室 高谷修平 伊藤百合

 伊藤百合は図書室のカウンターで、パトリシア・ハイスミスの『回転する世界の静止点』を読んでいた。そこに高谷修平がやって来て、

「伊藤ってキリスト教だよね」

 と尋ねた。

「私語は受けつけません」

 伊藤は本から目を離さず、冷たい声で言った。

「いや、真面目に質問があるんだけど」

「何?」

「俺の知り合いに『昔の宗教は女性差別的だ』って言ってる人がいるんだけど、どう思う?」

 言ったのは新橋早紀だが、それは伏せておくことにした。

「私はこう考える。聖書が書かれた時代、『人間』という言葉はそのまま男性のことだった。女性はそれに準ずるものでしかなかった。だから当時の男性の価値観や立場から見た理想が書かれた。女性に男性と同等の知性や精神があることは知られていなかった。当然、今の時代と合わない箇所はかなり多い。だけど現代は違う。女性に知性と精神があることはみんな知ってる。『人間』は男性だけじゃないし、イスラエルの民だけでもない。女性、ゲイ、レズビアン、あらゆる人種、あらゆる民族であることがわかってきたでしょう?だから、今世紀に入って初めて、真の意味で聖書は『人間全体のもの』になったと言える。内容が男性向けのままだから、少し解釈は難しいけどね。聖書だけじゃない。仏教や、あらゆる宗教の経典に関しても同じことが言える……」

 伊藤は一気にしゃべってから、修平がニヤニヤしていることに気づき、

「図書室でのおしゃべりは禁止です」

 と気まずそうに顔を赤らめて言った。

「奥の棚を点検して来てください」

「は〜い」

 修平は機嫌よく歩いて行った。本棚を見て回り、おかしな場所に入っている本を何冊かもとの位置に戻し、ゴミやほこりがないか確かめた。

 やっぱり伊藤にも話したいことはあるんだな。

 修平は思った。そうだ、誰だって話したいことはあるはずだ。幽霊にも病人にも、あらゆる人にも。

 修平は伊藤の所に戻り、

「その本、面白い?」

 と尋ねてみた。伊藤が顔を上げた。

「パトリシア・ハイスミスは、スマコンに勧められて知ったの。『キャロル』って知ってる?」

「あ〜、わかる。読んだことはないけど」

 女どうしの恋愛の話だ。いかにもスマコンらしい。

「あれを読んで、それから他の本を見たら面白かった。有名なのは長編だけど、私はこの人の作品、短編の方が好き。特にこれが」

 伊藤は本をかかげ、表紙の『回転する世界の静止点』という題名を指さした。

「その本、読んだら借りていい?」

「私はもう何度も読んでるから、今持ってっていいよ」

 伊藤は嬉しそうに貸し出し手続きをした。上手くプレゼンされたような気がしなくもないが、別にいいと修平は思った。伊藤の機嫌が良くなればそれでいいのだ。

 受け取った本をしまっていたとき、図書室に奈良崎が入って来た。

「あれ?めずらし〜ね、図書室に奈良崎」

 修平は大声をあげてしまい、伊藤に「静かにして!」と注意された。

「あのさあ、保坂がテントで暮らしてるから、食費寄付してくれない?」

 奈良崎が伊藤に小声で言った。

「ちょうど500円玉がある」

 伊藤はカウンターの下をごそごそと探り、財布から500円玉を取り出して奈良崎に渡した。ずいぶん気前がいいんだなと修平は思った。

「俺、これから駅前のセコマ行くけど、伊藤ちゃんも来る?」

 奈良崎が伊藤に尋ねた。

「気になるけど図書室にいなきゃいけないし」

「俺行ってもいい?」

 修平が言った。奈良崎が修平を見た。きっと体調のことを考えてるなと修平は思った。それか、伊藤が来なくて残念か。

「体力つけたいから歩きたいし、保坂がどうなってんのかも気になるし。あとさあ、俺現金持ってないからさ、店で電子マネー使えるか試していい?」

「じゃ、一緒に行くか」

 奈良崎が口元で笑った。修平が伊藤を見ると、

「行ってきて」

 と真剣な顔で言った。



 草原の真ん中、町への道を示す木製のサインの近くに、緑色のテントが張られていた。

 保坂は中でピアノの楽譜を見ていた。小型の蓄電器とノートパソコン、古びたランプがあった。なぜかタロットカードとマシュマロの小瓶もあった。きっとスマコンが置いていったのだろう。

 奈良崎がテント内の真ん中に買ってきた食べ物を置くと、保坂は楽譜を横に置き、無言でパンに手を伸ばして食べ始めた。空腹だったらしく、大量に買った食べ物の半分以上が、瞬く間に無くなった。

「こいつ、電子マネーの残高5万円もあるんだって!」

 奈良崎が修平を手で示しながら笑顔で叫んだ。

「さっきから同じことばっか言うなって。人のスマホ勝手にのぞくんじゃねえよ」

 修平は言い返した。

「いやでも5万だよ5万」

 奈良崎は先程からこの金額ばかり気にしていた。

「タブレット買ってくれや」

「自分で買えよ」

 修平は言ってから保坂の方を向いた。

「なんでテントで暮らしてんの?」

「それ聞く!?今聞いちゃう!?」

 奈良崎が大声をあげた。呆れた様子で。

「親父が離婚するって」

 保坂は暗い目つきで答えた。

「で、与儀の奥さんと一緒に暮らすって」

 外から雨と、雨粒の当たる音が聞こえてきた。台風が近いのだ。

「俺、ヨギナミはいいけど、あの奥さんと一緒は嫌だ」

「そりゃ嫌だろ、なあ?」

 奈良崎が同意を求めて来たので、修平は『うん』と言った。風が強くなり、テントが大きく揺れた。修平は『飛ばされるのでは?』と思ったが、奈良崎と保坂にそのことを気にしている様子はない。奈良崎は保坂に自分の家に来ることを勧め、修平は平岸アパートに空きがあると言った。しかし、保坂は『1人になりたい』と言い張って動こうとしなかった。2人は帰ることにした。

「だぁ〜!風強ぇ〜!!」

 奈良崎が草原で風にあおられながら叫んだ。修平は時々、強風に阻まれて立ち止まらなければならなかった。雨に濡れて体が冷えてしまい、明日熱を出すかもしれないと思った。

 

 平岸家に戻って保坂の話をすると、


 様子を見てくる。


 と言って、平岸パパが出かけていった。平岸ママは、


 明日食事を持っていくわ。


 と言った。平岸あかねと新橋早紀は無反応で、全く関係のない進路だの哲学だの万年筆だの、アナログのマンガで使うペン先のシンボル性だのを語り続けていた。

 修平は目の前の女の子2人を見ながら、すかさず500円玉を出した時の伊藤を思い出していた。

 やはり彼女は何かが違う。

 少なくとも、目の前の2人とは。



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