2016.8.29 月曜日 サキの日記
朝の3時半頃、人の話し声で目が覚めた。
奈々子さんが壁に向かって座り、小さな声でぶつぶつ何かしゃべっていた。壁の向こうから新道の声がした。2人は自分が生きていた頃の話をしているようだった。新道は仲間と共に古いビルを遊び場にしていた。奈々子さんは『完全に不法侵入ですよそれ』と言って笑っていた。仲間の中に橋本や初島もいた。橋本は今で言う不登校に近い状態だったようだ。
私は眠っているふりをして2人の会話を聞き、奈々子さんが姿を消した時に起きた。スマホを見たら朝の5時だった。コーヒーを飲みながら、幽霊たちは誰かと話したいのかもしれないと思った。自分がかつて生きた人生の話を。橋本が所長の体を勝手に使うのも、誰かと話したいからではないか。
それに、母が言っていたことも気になる。橋本は自殺したことになっているけど、母は、女がビルの上にいたと言っている。彼女が突き落としたに決まっていると言う。
本当は何が起きたんだろう?
考えていたら朝食の時間になった。
修平に聞いてみたら、
え?いや〜!俺寝てたから気づかなかった!
俺もその話聞きたかったな〜!!
と言った。でも修平は『ビルにたまってた話ならもう何百回も聞いてる』とも話していた。
うん。きっと幽霊たちも話がしたいんだと思うし、本当はもっと生きていたかっただろうね。
修平はそう言った。
でも、先生は俺の体を乗っ取ったりしないんだよ。
絶対に。
早く起きたせいで授業中眠くてあくびしちゃって、西田に目をつけられて当てられまくった。でも、英語は得意だから全部答えられた。私ってすごい。
私は佐加とヨギナミに今朝の話をしたかったが、今日はあかねがずっと『推しのマンガの少年がいかにかわいい体をしているか』を熱弁しまくっていたので、昼は話せなかった。帰りにメールしてみたら佐加から、
いいかげんLINE使わね?
という返信が来たけど、すぐその後に、
でも、ヨギナミもメールしか使えないもんね。
と追加で送ってきた。使ってるアプリが違うと色々とめんどくさいのはわかる。でもまだLINEとTwitterは怖い。
研究所に行ったら、所長が畑から取ってきた野菜を大量に調理していた。あまりにもたくさんあったので、どうしたのか聞いてみたら、
保存食を作ってるんだ。
これから必要になりそうだから。
好きなのがあったら食べていいよ。
と言って、それから、ヨギナミの家で起きた話を聞かせてくれた。行ったのは橋本だけど、所長も見ていたそうだ。保坂の父親がヨギナミの家に来て『邪魔な妻は消えたから一緒に暮らそう』と言い出した。ヨギナミは怒って追い出した。『ヨギナミ』は与儀さんであって保坂の子供ではないという意味だった。ヨギナミの家の冷蔵庫は空っぽだった……など。
もう信じられないよあの人でなし。
奥さんも狂ってるけど夫もおかしいよ。
所長はすごく腹を立てていた。私もその父親は頭がおかしいと思った。茹でとうもろこしと鶏肉のトマト煮を食べた。肉もきのこも大量にあるということは、午前中に買い物に行ったんだろう。保坂はこれからどうするんだろうと考えながら、料理を保存容器に入れて冷蔵庫にしまうのを手伝った。
いつもの部屋に戻ると、結城さんがテレビを見ていた。
こいつ朝からうるさかったんだよ〜新橋。
私を見るなり結城さんが言った。
早朝に叩き起こしに来てさあ、買い物につれてけってうるさいんだよ!まだ店開いてねえって。昨日の夜行った時に言えって。二度手間だしガソリンも無駄遣いだしさあ。
所長は結城さんを無視してカウンターの席に座り、外を眺め始めた。私は所長の隣に座った。結城さんはまたテレビに戻った。夕方の情報番で、道内初のなんとか、という音声が聞こえた。
所長はぼんやりしていて、話しかけても上の空みたいだった。昨日起きたことがよほど気になるんだろう。
私は早めに帰ることにした。
帰ってから、私は自分の未来について考えた。
私は文章が好きだ。
カントクは『シナリオを書きなさい』と言って万年筆をくれた。
所長は『哲学をやるといい』と言う。
文章、シナリオ、哲学。
私はこの3つの文字の間で思考停止した。自分がそういうことをやっている所を想像しようとしたけど、うまく行かなかった。シナリオなら、書けばカントクが見て、てきとうに褒めたりけなしたりしてくれるだろう。文章は文学部に行けばいいのか。いや、文章と文学は違う。大学の哲学科は敷居が高そうだ。
でも、あの不思議な感じ。
あれは何だろう?
あれが何なのか知りたい。
もしかして身体感覚?医学?もっと難しい。
何もかも漠然としすぎていた。具体的に進路のイメージがわくまでまだ時間がかかりそうだ。でも、こんなことをしていて間に合うんだろうか?もう2年の2学期なのに。
私はカントクがくれた万年筆でメモに試し書きをした。書くのにけっこうコツがいる。パソコンやスマホで書けばいいから本当は必要ないものだけど、カントクはきっと、『物書き』のシンボルとしてこれをくれたんだと思う。昔、多くの劇作家が紙とインクで名作を書いた。そのイメージを私にくれたのだ。私はもう、そういうことがわかる年齢になっている。カントクの言う通りだ。
私は何を書けばいいかもわからずに、メモを大量消費して夜まで過ごした。




