2016.8.28 日曜日 研究所〜ヨギナミの家
ふわふわと浮かんでしまいそうだ。体の感覚がない。でもはっきり見える。自分の体が、自分じゃない歩き方で道を進んでいくのを。
久方は、勝手に動いている自分の体の後を、一定の感覚でついていった。
あいつ、どこに行く気だろう?
ヨギナミの家?パチンコ?別な住民の家?
体は何もない草原に向かっていった。これはヨギナミの家だなと思った。止めようかと思ったが、なぜか声が出ない。晴れて草が風になびいている。きっと気持ちいいだろう。ただし、体の感覚があれば。
橋本は予想通りヨギナミの家に行った。そして、郵便受けの中にあるレンガを動かして、下にあるくぼみから鍵を取り出した。久方はショックを受けた。こいつ、鍵使わせてもらってるのか!なんだかものすごく嫌な予感がした。
橋本は慣れた手付きで鍵を使い、中に入った。薄暗い部屋、古い座卓、窓際のベッドに女が起き上がって、こちらを見て微笑んでいた。頬がこけていて、目のまわりが黒っぽく、体はひどく痩せて、信じられないほど肩が小さい。
これがヨギナミの母親なのか。
久方は驚いていた。こんな小さな弱そうな人が、かつて子供を産んだことがあるなんて信じられなかった。しかし、彼女の顔は今、嬉しそうに輝いていた。橋本の顔、つまり自分の顔も優しく笑っていた。自分の顔をこんなふうに見るのは気味が悪いが、それよりも気になったのは、2人の目が合った瞬間に、何かが通じ合ったこと、それを久方もなぜか感じることが出来たということだった。
あぁ、この2人。互いのことが本当に好きなんだな。
久方はそう思わずにいられなかった。ヨギナミの母親の目。この目つきに見覚えがあった。同じような瞳を、ドイツで見たことがある。遠い昔に。
2人は当たり障りのない話をした後、娘:奈美の話題に移った。自分が具合悪いのに娘は平気でバイトに行く。生活費は町の援助で出ているのに足りないと言う。あの子は『援助に頼ってばかりでは駄目だ』と言って聞かない。帰って来ても話し方が冷たい。
母親の口からは文句ばかり出た。橋本はしばらく、何も言い返さずに聞いていた。
具合、良くないんだな。
良くないわよ。不安でしかたないのよ。
誰もいない時に死んでしまうのではないかって。
具合が良くないにしてはよくしゃべる人だなと久方は思ったが、顔色は良くないし、病的に痩せているのは見た目からも明らかなので、仕方ないのかもしれないと思い直した。
それから、橋本は佐加の話を始めた。主にパチンコでおじさん達に物をたかっている話だった。久方はやめてくれないかなあと思いながら聞いていた。
すると、誰かがドアをノックした。
橋本が立ち上がろうとすると、ヨギナミの母:あさみが、慌ててその手をつかんだ。
駄目よ、保坂よ。開けちゃ駄目。
あさみが小声で言った。橋本の(つまり自分の)顔が引きつった。
おい、俺だ。開けろ。
男の声と、ドアを叩く音がした。これはまずいぞと久方は思った。とうとうあの男と鉢合わせしてしまうのか。あの狂った女の夫と。
おい!聞こえないのか?
帰ってちょうだい!
あさみがきつい声で叫んだ。
いや、話があるんだ。開けてくれ。
今更何を話せって言うの?
いい知らせだ。恵はいなくなったんだ。
久方は、今聞いた言葉が信じられなかった。
いい知らせ?
いなくなった?
あいつは精神病院にブチ込んでやった。
もう出てこないさ。
出てきたところで俺の知ったことか。
保坂の父親は機嫌が良さそうだった。久方はそれを恐ろしいと思った。おそらく橋本も、あさみも、同じように感じただろう。みんな表情が凍りついていて、言葉も出ないようだった。
こんなボロっちい家にいるこたぁない。
俺の家に来るんだ。
酔っぱらいのような声だった。
橋本があさみを見た。彼女は表情を無くしていた。顔が真っ白になっていた。少なくとも喜んではいないなと久方は思った。それにしても、なんて身勝手な男だろう。久方はいつか見た狂った女に、今や同情の念をいだき始めた。彼女がああなったのは、間違いなくこの男のせいだ。
どうするんだ?どうなるんだ?
久方は焦りながら成り行きを見守っていた。すると、
ここで何をしているんですか?
ヨギナミの声がした。バイトから帰って来てしまったのだ。橋本が再び立ち上がろうとしたが、またあさみがつかんで止めた。
おう奈美。いい所で会ったな。喜べ。今日から堂々と俺の家で暮らせるぞ。いやあ、鬼ババアがいなくなってくれたんでな。なあに、ヒデのことは心配するな。俺がちゃんと言い聞かせておくからな。
保坂の父親は機嫌よくしゃべり続けた。しかし。
帰ってください。
ここはあなたの家ではありません。
ヨギナミは断固とした口調で言った。
まあまあ、気持ちはわかるが、いいか、状況はもう変わったんだ。こんなボロ家で暮らすこたぁない。女が住むような家じゃねえだろう、ここはよ。
軽いしゃべりが続くかと思われたが、
あなたは私の父親じゃありません。
ヨギナミが静かに言った。
沈黙。
橋本がドアに近づいた。今度はあさみも止めなかった。橋本はドアの前で立ち止まり、様子をうかがっているようだった。
私に父親はいません。
母はいるし、弟はいるかもしれない。
でも父親はいません。
あなたは他人です。帰ってください。
二度とうちに来ないで。
あのヨギナミが、こんな強い声で話せるのか。
久方は驚いていた。さっきから驚くことばかりだ。
おしゃべり男はこの言葉を聞いて完全に黙ってしまったようだ。
ドアがいきなり開き、橋本が飛び退いた。ヨギナミが家の中に飛び込んで来て、そのままキッチンに走って行った。橋本があとを追った。ヨギナミはテーブルの前にしゃがんで震えていた。
おい、大丈夫か?
何かされなかったか?
橋本が尋ねた。ヨギナミは。
大丈夫、私はヨギナミだから。
と言った。
みんなが私をヨギナミって言うのは、保坂の子じゃないって意味なの。私は与儀の奈美なの。保坂のナミちゃんじゃないの。私がそう呼んでほしいってみんなに言ったの。
あり得ないの。私が保坂の家で暮らすなんて。
あの人、頭がおかしいんじゃない?
ヨギナミは、怯えと怒りが混じった声でそう言った。震えはなかなか治まらなかった。橋本はヨギナミが立ち上がるのを助けると、そのままベッドまで連れて行って寝かせた。そして、母親の方に向き直り、
お前はどうしたいんだ?
と尋ねた。あさみは答えなかった。ただ、白い顔のまま、寝込んでいる娘を見つめていた。
ま、ゆっくり考えろ。
橋本はそう言ってキッチンへ行き、深いため息をついてから、冷蔵庫を開けた。卵とご飯しか入っていなかった。
うちに、ポテトグラタンとフライシュヴルストがあるよ。
久方は仕方なく、自分の冷凍庫の中身をばらした。
というわけで、久方と橋本は研究所まで戻った。橋本は言われた通りにグラタンをオーブンに入れ、ドイツのソーセージを焼いた。助手:結城は、プロコフィエフのピアノソナタ6番を邪悪に弾いていて、夕食のことを忘れているようだ。いつもならたいへん腹立たしいが、今日は好都合だ。
ヨギナミの家に戻ると、2人ともベッドで寝込んでいた。座卓に食べ物を置き、一応声をかけてから家を出た。
道の半分まで戻って来た時、体が久方に返された。
もう日が暮れていた。風は心地よく、夕日は夜に近づいて、深い青が迫り始めていた。いつもなら、立ち止まっていつまでも眺めていたい景色だ。しかし。
何なんだよ、もう。
久方は小声で文句を言った。
僕の夕食はどうすりゃいいのさ。
つぶやきながら歩いた。本当は食事のことなどどうでもよかった。久方はひたすら早足で歩き、研究所に戻った。役立たずがキッチンにいた。
おい、食うもんないから外食するぞ。
食欲がないと言い張る久方を、結城は無理やり車に引きずって行って放り込み、ショッピングモールまで連行して行った。車内で久方がぼんやり考えていたのは、さっきの酔っぱらい男のことだった。
あいつは絶対にまたあの家に来る。
危ない。
あんなとんでもない男と暮らすのは、ヨギナミだって嫌だろう。当たり前だ。
しかし、あの母親はどうする気なのか。
モールのレストランで、ラーメン美味いラーメン最高を繰り返しているお気楽な結城を見ながら、久方は、あの、ヨギナミの母親の、弱々しくも愛情に満ちた目つきを思い出していた。それはいつしか、記憶の中の別な人に形を変え、久方を思い出の世界に連れて行ってしまった。




