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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年8月

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2016.8.20 土曜日 ヨギナミの家

 夏休みもあと2日だ。しかし、ヨギナミにとっては、休みなど元からなかったようなものだった。ほぼ毎日バイトに行っていたのだから。しかし、家にいるよりレストランにいたほうがましだとヨギナミは思っていたので、他のウェイトレスが休んだ穴を喜んで埋めていた。

 中年の従業員たちは、やれお盆の帰省だ、やれ家族とお出かけだと夏は頻繁に休みを取る。ヨギナミには墓参りするような親戚はいない。母方の祖母は1人で沖縄に行ったきり帰って来ない。娘の不倫のことを未だに怒っていて、奈美を孫だと思っていない。おそらく永遠に、認めることはないだろう。

 この世界に、()()()と2人きり。

 それはとても暗い事実なので、ヨギナミはなるべく考えないようにしていた。仕事に集中して、こまめにテーブルを拭いて、ゴミを片づけて、常連の客の話し相手になって……とにかく何かしていれば楽なのだ。




 その頃、ヨギナミの家を目指して、1人の女が歩いていた。目を怒りでギラつかせながら。


 今日という今日こそ、あのどろぼう猫を殺してやる。


 それは保坂の母親、恵だった。エルメスの靴を踏み潰さんばかりの勢いで、小さな小屋に近づいていく。

 しかし何だこのボロ屋は。昔の物置じゃあるまいし。

 彼女は思った。こんな所に住んでいる女がろくな人間であるはずがない。

 恵が家に近づくと、そこには小さな少年がいた。家のまわりの草を刈っているようだ。よく見ると、それは学校祭で会った久方という男だった。


 あいつ。自分は関係ないとか言ってたくせに。


 にらまれていることに気づいた小さな人が、恵を見た。しかし彼女は無視して、家の入り口に真っ直ぐ向かって行った。


 おい、何をしてる?


 おっさんが声をあげた。恵はドアを開けようとした。カギがかかっていた。ありったけの力でドアを叩きながら、


 出てこい!このクソアマ!どろぼう猫!


 などと、すさまじい声で怒鳴り始めた。


 おい!やめろ!


 おっさんが近づくと、恵は、目玉が飛び出さんばかりに目を見開き、叫びながらおっさんにつかみかかった。そして、勢いよく突き飛ばした。


 出てこい!出てこい!ドロボー!ドロボー!


 恵はドアを殴ったり蹴ったりしながら、狂ったように叫び続けた。とぐろを巻いてあたりに響き渡るような奇怪な声で。おっさんは草の上に起き上がって、その異様な光景を呆然と眺めていた。


 殺してやる!殺してやる!殺してやる!


 恵は叫び続けた。それはもはや女の声ではなかった。異界からやって来た魔物のような声だった。


 何やってるのさ。警察を呼びなよ。


 久方創の声がした。おっさんは驚いてあたりを見た。


 あの人は精神異常者だよ。間違いなく。

 警察を呼びなって。スマホあるでしょ?

 まさか使い方わからないとか言わないよね?


 姿はなかったが、創の声だった。体を操っている時にこんな風に話しかけて来たのは初めてだ。

 おっさんは慌ててスマホを取り出し、警察に通報した。





 夕方、ヨギナミが家に近づくと、ちょうど家の前からパトカーが発車したところだった。急いで家に戻ると、母がベッドで震えていた。顔は真っ青だった。おっさんが隣りにいて、母の背中をさすっていた。


 何が起きたの?


 ヨギナミが尋ねると、おっさんが答えた。


 保坂の母親が来て騒いで行ったんだよ。

 でも大したことない。


 大したことないですって!?あれが?


 あさみがおっさんに抗議した。


 あんな異様な叫び声を聞いて、

 よく平気でいられるわね!


 あさみの震えが強くなった。おっさんは彼女を抱きしめた。手の甲に傷があることにヨギナミは気づいた。そして怖くなった。ケンカして怪我をするほどひどい騒ぎだったのかと。

 ヨギナミは恐怖を感じたが、いつも通り夕食の支度をした。ごはんを多めに冷凍しておいてよかったと思った。うどんは切らしていた。買いに行きたいが、町のスーパーに行くと奥様達の目が冷たい。宅配を頼んだ方がいいだろう。でも割高になってしまう。

 こんな時にお金の心配しかしない自分はおかしいのだろうか。ヨギナミは暗い気持ちで野菜を刻み、味噌汁を作り、にらと卵を焼いた。母が『よくこんな時に落ち着いていられるわね』と自分の悪口を言い、おっさんがそれに対して怒っている声が聞こえた。ヨギナミは3人分の食事を運んでいった。


 いや、俺はいい──。


 おっさんは言いかけて、空中を見て軽く手を上げたまま止まった。


 どうしたの?


 ヨギナミが尋ねた。


 いや、今、創が俺にしゃべった。

 食べていけって。


 おっさんが言い、あさみが奇妙な目を向けた。


 うちにはお前にやる食いもんはないってよ。


 おっさんはそう言って笑い、座卓の前に座った。あさみは怪訝な顔をしながらベッドから出て席についた。食事中、3人とも一言もしゃべらなかった。テレビがいつものように、絶対に行けないどこかの店の特集をしていた。

 ヨギナミが皿を洗っている間、母とおっさんが2人で何か話していた。とぎれとぎれにしか聞こえなかったが、どうやらおっさんは、所長と会話するようになってきたらしい。

 夜、あさみが寝付いたのを確認してから、おっさんは帰って行った。ヨギナミは窓から、その後ろ姿を目で追った。それから、夏休みの宿題が全て終わっていることを確認し、いつも以上にしっかり戸締まりを点検してから、着替えてベッドに入った。しかし、なかなか眠れなかった。保坂の奥さんがまた来るのではないかという気がしたからだ。おそらく、母が昔したことゆえに、あの人は自分たちを一生恨み続けるだろう。町の人たちだって、これから何を言って来るかわからない。


 遠くへ行きたい。1人で。


 ヨギナミは思った。でも、そんなことは無理だった。



 


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