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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年8月

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454/1131

2016.8.13 1998年

 奈々子は夜の狸小路を歩いていた。シャッターの閉まった商店の前で、何人かの路上ミュージシャンが演奏している。奈々子の一番好きな時間だ。音楽が好きな人が集まり、歌い、聴く。昼間の世界とは違う札幌の一風景。

 その中に、高谷修二がいた。友達のベース、賢治(奈々子は彼の名字を知らなかった)と一緒に路上演奏を続けている。修二の歌とギターは特別で、ただ上手いだけではなく、人を惹き付ける何かを持っていた。だから集まる人も多かった。奈々子はその日も、音を聴いただけで修二がいると分かり、近くに寄っていった。

 集まった人達はみな、修二に夢中だった。いや、修二の声とギターに夢中だった。こんな時間に、小さな子供が1人で狸小路を歩いている、そのことに誰も気をとめない。

「創くん?」

 奈々子はその子に話しかけた。

「今は違う」

 見た目に合わない大人びた声がした。

「あいつは引っ込んじまってる」

 ああ、『もう1人』の方か。奈々子はあたりを見回した。母親や、子供を補導する警備員みたいなのがいないか確かめたかったからだ。幸い、その手の連中らしきものは人混みの中にもいなさそうだ。

 2人はそこで並んで修二たちの歌を聴いた。全ての曲が終わると、ほとんどの人はすぐにいなくなったが、何人かの女の子が熱心に修二にからんだ。ねえ、あなたのギターすごくない?習ってるの?独学?どうやって暮らしてるの?ススキノに住んでる?え?夜の仕事してるの?今いくつなの?修二はその手の質問には慣れきっていて、上手いこと彼女たちをまいて、機材を片づけ、奈々子たちに気づいて手を振った。その瞬間『創くん』の体がピクッと震えた。

「しゅーじ」

 小さな口から、辛うじて聞き取れる声が漏れた。あ、戻って来た、と奈々子は思った。あいさつのかわりに頭を撫でてみた。創くんは奈々子を見て驚いた顔をした。

「今日も俺んとこ来るか?」

 修二がギターケースを担ぎながら言った。


 そこは本当は修二の家ではなく、風俗で働いているユエという女性のアパートだった。彼女はこの時間は『仕事中』なので、修二と奈々子と創くんは3人で座卓を囲んでいた。ユエと奈々子は顔見知りだった。昔、奈々子が大通のブックオフで変なおじさんに『ねえ、一緒にお茶しませんか』と古臭い絡まれ方をしたときに、助けてくれたのがユエさんだったのだ。その時は、ただの本好きのきれいなお姉さんだと思っていた。

 修二は冷蔵庫から卵を取り出し、茹で始めた。奈々子と創くんはぼんやりとその様子を眺めていた。それから、修二は慣れた手つきでたまごサンドを作り、創くんの前に置いた。創くんはそれをものすごい勢いで食べた。

「飢えてるな」

 とそれを見た修二はつぶやき、残りを奈々子の前に置いた。

「ナギにあのテープを聴かせてみたの」

 たまごサンドを頬張りながら奈々子は言った。

「そしたら、こんなのは間違った演奏だって言われた。でも、NHKでかかってたんだよ、あれ?」

「好みは人によりけりだ。あいつ元気?」

「嫌味すぎるほど元気」

 奈々子はそう言って顔をしかめた。

「でも、テープはダビングさせろって言ってたから、やっぱり気になってるんだと思う。あのトッカータ」

「一緒にやってくれって頼んでるんだけどな」

「路上?無理でしょ。あいつプライド高いもん」

 奈々子が最後の一切れを口に入れながら言うと、修二は『ははっ』と声に出して笑いながら、ギターをケースから取り出した。創くんが近づいて、弦に触った。低い音がした。

「今の時間に弾いて大丈夫?苦情来ない?」

「ちょっと弾くくらいならいいだろ。それに、このアパートの住人はだいたい……あっちの女」

 修二が気まずそうな顔をした。彼は『風俗』とか『売春』という言葉を使いたがらない。本当は、ユエさんにも辞めてほしいと思っているのだ。奈々子は実際に彼がそう言っているのを、アミューズでCDをあさっているときに聞いた。しかし、彼は実質ヒモ(昔はそういう良くない言い方をしたものだった)だったし、ユエさん本人にも転職する気は全くない。世の中は不景気だ。仕事なんてない。物事はとにかく上手く行かない。

 子供がでたらめに弦をはじくボーン、ボーンという音が、無音のアパートに響く。修二は『こいつには音感がある』と言ってCコードを教えようとした。でも創くんにはまだ早すぎたようだ。何だかよくわからないという目で修二を見てから、また弦を一つ一つボーンと弾き始めた。

「お前そろそろ帰ったほうが良くない?」

 修二が言った。奈々子は腕時計を見た。夜11時半。もうみんな寝ている。誰も、彼女が窓から抜け出したことに気づいていない。

 いや、気づいていたからって何だ。

 どうせ誰も、私に興味なんかない。

「もう少ししたら帰る」

 奈々子はつぶやいて、また創くんを眺めながら、さっきの『もう1人』は今、どうしているのだろうと考えた。たぶんまた閉じ込められたところを、あっちの方が上手く脱走して来たのだ。自分では何もできない創くんのために。

 何とかしなければ。

 でも、どうしたらいいのだろう?



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