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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年8月

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2016.8.6 土曜日 サキの日記 駒が来る

 暑い。部屋に空気がこもり、窓を開けても風が入って来ない。エアコンがないのはけっこうつらい。外のほうがましかもと思ったらものすごい晴れ。太陽が輝きすぎて何もかも干されそう。

 研究所に近づくと、ピアノと一緒に聞き慣れない楽器の音が聴こえてきた。前に少しだけ聴いたチェロの音に似ていた。ピアノとチェロが絡み合って、聴いたことがない種類の音楽を作っている。1階には誰もいなかったので2階に上がってみると、結城さんの部屋に所長がいて、見慣れない男の人がやっぱりチェロを弾いていた。結城さんもピアノを弾いていて、2人ともすごく心地よさそうだ。

 曲が終わると、


 いや〜、ええわ。こんなに弾ける奴いるって知っとったら、もっと楽譜持って来たんやけど。


 とチェロの人が言った。そして私に気づき、


 おっ、噂のサキちゃんやな。


 と言って笑った。私は噂されていたらしい。所長は私に気づいて、


 こまだよ。神戸の友達。うちの隣に住んでた。


 と言った。駒さんはがっちりした体型の、髪が黒くて短い、どちらかというとスポーツが好きそうに見える人だった。小柄で細い所長とは真逆の見た目。


 どうも〜。西日本のセロ弾きです〜。


 駒さんがふざけて言った。地元のオーケストラのチェロ奏者だそうだ。

 さっきの曲名を聞いたら、グラナドスとかアンダルーサとか所長が言った。聞き覚えがなさすぎてどっちが題名だかわからなくなった。チェロにはピアノほどなじみがない。そのせいで、結城さんと駒さんが話す内容とか、出てくる曲名や作曲者名が全くわからなかった。聞き取れたのはアヴェ・マリアとか、ラフマニノフとかいう単語だけだ。

 駒さんと結城さんは気が合ってしまったらしく、来てからずっと二人で合奏し続けているという。

 所長は私と一緒に1階に降りながら、


 駒は僕に会いに来たはずなのになぁ。

 すっかり取られちゃったよ。


 と言いながらも嬉しそうに笑っていた。いつものようにコーヒーを飲んでいたら、またピアノとチェロの合奏が始まった。曲名を所長に聞いたはずなんだけど、やっぱり覚えられない。ロッシーニのマル何とかって言ってたような気がする。

 駒さんは2泊ほどここに滞在するそうだ。この建物に泊まるってどんな感じなんだろう?私もやってみたい。でもまた平岸家の全員に『男の家がどうこう』って注意されるだろうし、所長もたぶん駄目って言うだろうなと思った。


 駒がさっき言ってたんだよ。

 ここは楽器の練習するには最高の場所だって。

 近所に誰も住んでないからいつ弾いても怒られない。

 俺でも徹夜で弾くわこんなとこ住んでたらって。

 すっかりピアノ狂いの味方なんだ。

 僕、しばらく眠れないかもしれない。


 所長は神戸に住んでいた頃の話をしてくれた。隣の駒さんの家からは、毎日のように練習曲が聴こえてきていたそうだ。


 駒は子供の頃すごく体が小さくて、チェロはやめてバイオリンにしろって言われてたことがあったんだって。でも本人はどうしてもでかい方がいいって聞かなかったらしい。中学で急に大きくなって、今じゃ大柄なくらいだけどね。

 近所では有名だったよ。音が筒抜け過ぎて。近所のおばさんが『あの子も少しは上手くなったな』とかうちに来てしゃべってたりして。

 僕はギターが弾きたかったけど、手が小さいし、集中力がないから無理だった。


 そんな話を聞いていたら合奏が終わり、駒さんと結城さんが降りてきた。


 どう?4人で飲みに行こ。このへんに居酒屋ある?


 駒さんが来るなり言い出した。

 すみません。私は未成年です。


 酒飲まなきゃええ。食いもん食いもん。

 え?隣町まで行かんと店ない?

 じゃ俺の車で行こか。


 意外とグイグイ来る人だった。帰りが遅くなりそうだと思って、私は一応平岸家に知らせた。すると、


 俺も行くよ。保護者代表で。

 車はこっちで出すから。


 なんと、平岸パパが車で研究所まで来てしまった。

 にこやかに近づいてきて、


 ようこそ変人の町へ!


 と言いながら名刺を駒さんに渡した。名刺持ってるの初めて知ったからちょっと見せてもらったら、変に大きな字で『平岸家』と書いてあった。いつから平岸家は社名になったんだ。駒さんは最初、『平岸家』を飲食店と勘違いして、


 ああ、店の送迎の人?


 とか言って所長に『違う!違うって!』と突っ込まれていた。平岸パパは爆笑してから、学生の下宿を運営していると説明した。

 駒さんはノリの軽い人らしく、知らない平岸家の車にもためらわずに乗り込んだ。一番乗りにくそうにしていたのは所長だった。本当は嫌なんだろうなと、私はそれを見て思った。

 車は平岸パパがたまに行くという、町のはずれにある居酒屋に着いた。個人の店らしくて、中年の店長と平岸パパが仲良しみたいなタメのあいさつをしていた。でも、店内の雰囲気はよくあるチェーン店みたいだった。昔、劇団の人に連れて行ってもらった安い居酒屋によく似ていた。全国どこにでもありそうな雰囲気というか。メニューだけは『道内産の何とか』を大量に並べて売りにしてはいるけれど。

 私と所長と平岸パパはウーロン茶を頼み、結城さんと駒さんは揃ってビールを頼んでいた。2人はまた音楽の、私には聞き取れない知らない曲の話を始めてしまった。平岸パパは所長に、駒さんのこととか最近のことを尋ね、所長は小さな声でぼそぼそとそれに答えていた。店内は人が多くて、けっこう大声で騒いでいる人もいたから、所長には不快だったのかもしれない。

 そのうち駒さんは、自分達ばっかりしゃべっていると気づいたのか、私に学校のこととか進路のこととかを聞いてきた。私は当たり障りのない範囲で答えた。すると結城さんが保坂の話を始めた。


 結城さん、ピアノの先生やったんか。


 いや、そいつにしか教えてないですけどね。

 本当はピアノ教師なんて、俺の一番嫌いな職業なんですけど。


 なんで嫌いなん?自分の先生がやな奴だったんか?


 いや、母親が音楽教室の先生だったんです。

 要は反抗してたんですよ。


 結城さんが言った。そんな話初めて聞いた。結城さんは店の人を呼んで追加のビールを頼んだ。私は刺身と唐揚げをひととおり食べ尽くして、次に頼むものを決めようと、所長と一緒にメニューを見ていた。でも、結城さんが何を話すか気になって、注文どころじゃなくなってきた。私は平岸パパにメニューを任せた。平岸パパはなぜかキムチ鍋を頼んだ。

 

 久方さん。少しは食べないと元気出ないよ?


 平岸パパがそう言ったのは、所長がずっと下を向いて黙っていたからだった。もう少し静かなお店で、私と2人か、駒さんとだけ一緒だったら、たぶん所長も普通にしゃべれたんだろうけど。


 お前変わってないな。やっぱり世間に出るのは苦手か。


 駒さんが所長に言った。


 外を歩いてる方が楽だよ。


 所長がつぶやいた。結城さんが所長を見て目元を歪めた。


 こいつはいっつも畑や森を散歩してますよ。

 そこの分身と一緒に。

 どう思います?駒さん。

 久方と新橋は似すぎてると思いませんか?

 いっつも一緒に行動してるんですよこいつら。


 所長の顔が真っ赤になった。私は『そんなに似てます?』と残り2人に聞いてみた。平岸パパは半笑いで首をかしげ、駒さんは『うん、よう似とる』と言った。


 まあとりあえず上手くやっとるようでよかったわ。

 いきなり北海道に行くって言い出した時は、久方社長も奥さんもえらい慌ててたからな。他の場所ならともかく、よりによって──、


 駒さんはそこで言葉を切って、私と平岸パパを見てから、


 ──あんな何にもない所になあ。


 と言った。私は思った。この人、所長のお母さんが北海道にいたことを知ってるんだと。


 俺もあそこに人が来るって聞いた時は驚いたよ。もう10年近く放置されていた廃墟だからね。


 平岸パパが言った。


 でも、あそこは、僕には合ってるんです。

 静かで。ピアノさえ弾いてなければ。


 所長が小声で言い、結城さんはそれを聞いて鼻で笑った。


 まあ、この町は本当に何もない所だからね。

 売りは静けさばかりなりだ。


 平岸パパが秋倉町のさえない現実の話をしている間、結城さんはむやみにビールをおかわりし、だんだん顔色が怪しくなってきた。所長はやっぱり黙ってるし、駒さんはなんとなくあいづちを打って調子を合わせていたけど、時々ちらっと店内の時計を見ているのを私は見逃さなかった。

 町の話が途切れた時、飲みすぎて赤い顔をした結城さんが、いきなり、


 おい、お前。


 と言って身を乗り出し、私の肩をつかんだ。

 残り全員が驚いてこちらを向いた。


 お前、なんで今頃俺の前に出てきたんだ?


 結城さんは変な目つきで私の顔をのぞきこんだ。

 酒臭かった。


 俺に何をしろってんだ?言ってみろ。


 何言ってんだかわかりませんよ?



 俺はお前のせいで、今もピアノがやめられないんだ。



 結城さんが私を強く揺さぶった。恐かった。殺されるんじゃないかと思った。『おい!やめ!』と駒さんが間に割って入った。結城さんは座席に倒れてうめいた。


 駄目だ。完全に酔っ払ってる。


 所長が言った。それから私の方を見た。何かを懸念する顔で。私は所長が何を言いたいかわかった。


 今の結城さんの言葉は、私に言ったんじゃない。

 奈々子さんのことだ。彼女に言ったのだ。


 平岸パパが会計をすませ、『今日はまあ、変人の町のおごりということで』と駒さんに言った。駒さんはありがとうございますと言ってから、結城さんに肩を貸して車まで運んだ。そして、


 こいつ本当にお前の世話してんの?

 お前が世話させられてるんと違う?


 と所長に言った。所長は無表情で、


 その通りだよ。


 と言った。



 研究所に着いてから、2階の部屋で結城さんを寝かそうとすると、いきなり駒さんの腕をつかんで、


 何か弾いてくださいよ。


 と言った。いいから寝てなさいよと平岸パパがなだめたんだけど、


 頼むから、何か聴かせてくださいよ。

 お願いします。


 結城さんは、らしくない切羽詰まった声で言った。何かがおかしいとみんなが思った。


 じゃ〜、弾くわ。しゃあないなあ。


 駒さんはうんざりしながらもケースからチェロを取り出し、ソロで何か弾き始めた。建物内に響く優しい音色。たぶん所長が言ってたバッハの曲だと思う。

 演奏が終わると、結城さんは、


 どうも、すみません。


 と下を向いたまま小さな声で言った。ひどく弱っているように見えた。

 平岸パパは、


 いいねえ。

 久しぶりに聴くと心が洗われるなあ。


 と満足した笑みで言った。所長は駒さんに近づいていって『下で話そう』と言った。私もその話に加わりたかったけど、平岸パパに『そろそろ帰らないとあかねが怒鳴り込んで来る』と言われて仕方なく帰った。


 あの助手はやっぱり危ない気がするなあ。


 帰りの車内で平岸パパがつぶやいた。私は何も言わなかった。平岸パパもそれ以上どうこうは言わなかった。私はさっき揺さぶられたショックがまだ抜けてなくて、言われたことをずっと頭の中で反芻していた。


 俺はお前のせいで、今もピアノがやめられないんだ。


 何があったんだろう?奈々子さんと結城さんの間に。

 そして、なんで私と彼女を勘違いしたんだろう?

 考えていたらメールが来た。


 結城には奈々子さんが見えてるんだ。


 所長からだった。


 僕らと話すときは『幽霊なんて信じない』とか言ってるけど、あれは嘘なんだよ。

 本当はわかってるんだ。

 どうして知らないふりをするのかはわからないけど。


 謎は解けるどころかますます深まっていく。

 私はまた夜にコーヒーを飲んでしまい、眠れない頭で思い出していた。酔っ払った結城さんの言動。駒さんに『何か聴かせてくれ』と頼んだ時のあの奇妙さ。

 何が起きたんだろう。遠い昔に。

 駄目だ。今日眠れそうにない。BBCでも聴こう。

 そうだ、宿題も出てた。夏休みの宿題が。







 


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