2016.7.31 1979年 札幌
橋本旭は『立入禁止』という札のかかっているチェーンを飛び越えて、廃墟になっているビルの中に入っていった。
ひび割れているコンクリートの階段を上がり、最上階の小部屋の窓を開けた。眼下には札幌の街が広がっている。彼を決して受け入れない、冷たい人々が暮らす街並みが。
橋本は窓枠に足をかけ、身を乗り出した。
今日で俺の人生は終わりだ。
何もかもくだらない。
空中に身を踊らせようとした、その時だった。
「やめろぉぉぉぉ!!」
叫び声とともに、誰かに後ろから組みつかれて、橋本は部屋の床に落ちた。
「何してんだよぉ。危ないじゃないか!」
起き上がって見ると、学ランの男が近くに四つんばいになっていた。見たことがない男だった。丸いような四角いような顔で、身が細く、異様に背が高い。
「お前誰だ?ここで何してる?」
橋本は低い声で尋ねた。
「ここは立入禁止なのに、入って行くのが見えたからついてきたんだ」
ノッポが弱そうな声を上げた。
「何してんだよぉ」
「俺の後をつけてきたのか!余計なことしやがって!」
いまいましげに言ったあと、橋本はまた窓に向かって走り出した。
「ダメだってぇぇぇぇ!!」
男が叫んだ。
そのとたん、窓から不自然なまでの強風が吹きつけた。橋本は風に邪魔されて、前に進むことができなくなった。そのすきに、男が窓に近づいて閉め、鍵をかけた。なぜかこの強風は、この男には影響を与えていないようだった。
「おい」
橋本は男に向かった。しかし、相手の背が高すぎて、かなり上を見ないと目が合わなかった。
「お前は誰だ、今の風は何だ?」
「え?いや、その……」
男がまごついた。明らかに目が泳いでいる。図体がでかいわりに表情が幼い。
「聞こえねえのか?お前は誰だって言ってるんだよ!」
橋本は苛立って怒鳴った。今日人生を終えるはずだったのに、こいつのせいで台無しだ。
「あ、俺は、新道隆」
男は気まずそうに横に目をそらした。
「新道?聞いたことねえな」
「転校してきたばっかりなんだ」
「フン」
どうでもよかった。
「もしかして、橋本?」
新道が言うと、橋本はきつい目で彼をにらんだ。
「なんで俺の名前を知ってる?」
「あの、クラスの人が言ってたんだ。赤毛の奴がいるけど、学校にはあまり来ないって」
髪の色。
そう、これだ。橋本は生まれつき髪が赤茶色く、そのせいでまわりに目をつけられながら人生を送ってきた。当時の日本では、髪を染めている者はほぼ皆無で、黒くない髪の者は異端者扱いされていた。
「どうでもいいな。早く出てけよ」
橋本は吐き捨てるように言った。しかし、
「いや、出ていけない」
新道は目を伏せながらつぶやいた。
「何だと?」
「出てったら、橋本、また飛び降りようとするんだろ?だから俺は出ていけない。止めなきゃいけないから」
新道は悲しげな顔で床のあたりを見つめていた。邪魔だ。うっとおしい。帰れ。そんな言葉が橋本の脳裏に次々と浮かんだが、それらが口から発されることはなかった。なぜか、そういった言葉は、この男には合わないと思った。
「お前、おれん家に来いよ」
気がつくと、橋本はそう言っていた。そして、自分が発した言葉に驚いたかのように顔をそむけ、小部屋の出口に向かって歩き出した。新道もついてきた。
ビルの入り口まで戻って来たとき、
「シンちゃ〜ん!」
そこには根岸菜穂がいて、両手を細い腰に当て、かわいらしい顔で怒っていた。
「ここは立入禁止です!!」
「あ、ご、ごめん!あのさ、ちょっと気になることがあって」
新道が慌てて弁解を始めた。菜穂は橋本に気づき、目を見開いた。
「橋本くん?なんでここにいるの?学校は?」
まためんどくさいのが現れた。橋本は顔をしかめながら新道に近づき、背伸びをして胸ぐらをつかんだ。
「てめぇ、こんなところに女の子を連れてくるんじゃねえよ!」
「えっ?いや!違う!違うんだって!」
「女の子の何がいけないの?ナホも仲間に入れてよ!」
菜穂が橋本をにらんで叫んだ。
なぜだ、なぜこうなるんだ。
橋本はうめきながら新道を突き飛ばすと、チェーンを飛び越えて走って逃げてしまった。
「あ!待って!待てってば!」
新道が慌てて追いかけていき、もちろん菜穂もついていった。




