2016.7.30 土曜日 研究所
疲れましたあぁぁぁ。
早紀は来るなり、テレビ前のソファーに倒れた。
バイトってこんなに疲れるんですね。
朝起きたらもう疲れてて体重いです。昨日の疲れが取れてないんですよ。怒鳴るおっさんのせいかもしれないです。あれはパワハラですよ。
あ〜。
早紀はソファーに頭をこすりつけてもぞもぞと動いた。
久方は、いつかカフェの孫が言っていた『新橋は大人に対して無防備すぎる』という言葉を思い出していた。
確かに危ない。
これは危険だ。かわいい女の子がもだえてる。
サキ君、起きて。
よこしまな想像をしそうになった久方は、反省しながら早紀を起こして、隣に座った。自分以外の誰にも、今の早紀に近づいてほしくなかった。
明日は日曜なのでお休みですが、
まだ3日も残ってますぅ。
早紀がつぶやいて、久方にもたれた。久方は押しのけようかどうか迷ったが、せっかくなのでそのままにしておいた。
僕も疲れたよ。
いくらあいつに呼びかけても出て来ない。
久方は小さな声でつぶやいた。
来てほしくない時には乗っ取りに来るくせに。
2人はしばらく、もたれあったままじっとしていた。雨が降り出した。最近はずっと天気が悪い。
結城さんはどこに行ったんですか?
2階にいるよ。
見てきます。
早紀は立ち上がって出ていった。久方はソファーに倒れ、胸に軽い痛みを感じながら起き上がり、カウンター席に座って外の雨を眺めた。最近外に出ていない。そろそろ植物が恋しくなってきた。久方は外に出ることにした。
結城が部屋でピアノの楽譜を見ていると、早紀がやってきた。いつもの制服ではなく、白いTシャツにデニムという格好で、いつもよりさらに幼く見えた。
今日はピアノ弾かないんですか?
弾くよ。これを見てから。
結城は楽譜から目を離さず、そっけなく答えた。話す気がないのを見てとったのか、早紀は本棚の前に進み、背表紙をひととおり眺めた。それから、楽譜を一冊取り出した。
ピアノはわかるんですけど、
合唱曲の伴奏があるのはなぜですか?
コーラスもやってたんですか?
合唱は奈々子が興味を持っていた分野だった。彼女は実際に、老人だらけのコーラスグループにヘルプでソプラノとして参加していたこともあった。古臭い合唱曲の歌詞が好きだった。だいたいは詩人の作品に曲をつけたものだった。彼女は詩も好きだった。
『火の山の子守歌』ですね。私これ知ってますよ。
早紀が歌の一部を口ずさんだ。つたない、口笛のような声だ。彼女とは比べものにならない。しかし、その声の中に、何か、以前に触れたことのあるものを、結城は感じた。これ以上早紀にここにいられるのは危ないと思った。そもそも彼女がこの曲を知っているのはおかしいし、合唱の楽譜を手に取ることもありえない。別の何かが彼女にそうさせたとしか思えない。
あんま人のものいじらないでくれる?
今では手に入りにくい楽譜もあるからさぁ。
結城はつとめて軽く言った。早紀は大人しく楽譜を元に戻して、ピアノに近づいてきた。
私もピアノ習いたいんですけど。
それは無理だ。やめたほうがいい。
結城は半笑いで答えたが、内心焦っていた。
下手にはまると地獄を見るから、この世界。
どういう意味ですか?
言葉通りの意味。そろそろ出てってくれる?
練習できないから。
早紀は不満を顔に出しながらも、部屋を出ていった。足音が1階まで遠のいたのを確認してから、リストの『ため息』を弾き始めた。
結城は思っていた。
しばらくラヴェルは弾かないほうがいいな、と。




