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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年7月

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434/1131

2016.7.30 1998年

 神崎奈々子は、声楽の先生の前で『私を泣かせてください』を歌っていた。CDを聞きながら真似をして何度も何度も発声練習したおかげで、元々きれいだった声に厚い響きが加わり、空気が音色に合わせて揺れ動いた。

「すごいわ。今まで聴いた中で一番上手い。誰よりも上手」

 みのり先生はいつも褒めてくれたが、奈々子は満足していなかった。目指しているのはモーツァルトの『夜の女王のアリア』だ。あの曲が歌いたい。しかし、一番高い音がどうしても出せない。高すぎる。でもいつか歌えるようになりたい。練習するしかない。

 レッスンを終えて防音室を出ると、かすかにピアノの音がした。みのり先生の息子が弾いているのだ。ラヴェルのソナチネを。奈々子はそっと、ピアノがある部屋のドアを開けた。

「何?」

 ピアノを弾いていた手が止まり、派手な金髪の、きれいな顔の男が奈々子をにらんだ。演奏の邪魔をされるのが何よりも嫌いだからだ。

「ナギ、ラヴェル弾けるんだ」

 ナギというのは、彼のあだ名だ。母親も奈々子もススキノ周辺の人も、みんな彼をナギと呼んでいた。理由はわからない。彼の本名を、奈々子は知らなかった。誰も口にしないからだ。

「当たり前でしょ?何?バカにしに来たの?」

「『クープランの墓』って弾ける?」

「弾けるけど?」

「弾いてみて」

「は?」

「あんたが弾くとどうなるか聴いてみたい」

「なんで?」

「最後のトッカータだけでいいから」

 ナギは困惑しているようだったが、奈々子が自分をじっと見たまま動かないので、仕方なく言われた曲を弾き始めた。

 弾き終わると、奈々子は真顔で、

「やっぱり違う」

 と言った。

「は?何それ。せっかく弾いてやったのにバカにしてんの?」

 ナギは怒り出した。

「あ、違う。そういう意味じゃないの」

 奈々子は慌てて説明した。

「前にね、たぶんNHKのラジオだと思うんだけど、『クープランの墓』が通して全曲、流れてたの。それがすごくきれいな演奏で。特に最後のトッカータが、すごくなめらかで、流れるようで、なんていうか……」

 奈々子は少し間をおいてから、

「愛だと思った」

 と口にした。ナギは思わず息を吹き出した。

 愛?バカげてる。

「笑わないでよ。私の説明が悪すぎて伝わらないだけで、本当にすごい演奏だったんだから!なのに、誰が弾いているか聞き逃しちゃったの。演奏はテープに録ったんだけどナレーションが途中で切れてた。それから中古のCDとか、借りられるものはありったけ聴いてあの音を探したの。でも、みんな弾き方が違うの。あのなめらかさがないの。ブツブツ途切れるような音で弾いてる人が多くて」

「トッカータって言葉の意味、あんたわかってる?」

 ナギの口調はあからさまにバカにしていた。

「わかってる!でもあの演奏はあまりにもすごかったから。なんていうの?すごく優しいっていうか、それでいて激しいっていうか、うーん」

 奈々子はしばらく言葉を探してから、

「抱かれてる感じ?」

 と言った。

「あんた、そっちの経験もないでしょ絶対」

「どうでもいいでしょ?」

 奈々子はにやつくナギをにらんだ。

「とにかく私はあのトッカータを弾いた人を探してるの。あんたの演奏も違ってた。それだけ!ごめん。もう帰る。余計なことしてごめん」

 奈々子はくるっと向きを変えると、ピアノの部屋を出た。そして思った。あんなに自信のあるナギでも、同じ曲であの音を出すことはできないんだと。それがクラシックの不思議な所だ。同じ曲でも演奏者によってまるで違う曲になってしまう。

「ねえ」

 声がしたので振り向いた。ナギが廊下に出て、無表情で腕を組んでこちらを見ていた。

「さっき、テープに録ったって言ってたよね。あんたが抱かれてる演奏」

「やらしい言い方はやめてくれない?」

 奈々子は顔を赤らめた。

「あんたが自分で言い出したんでしょ?」

 ナギはまた、人をバカにしたような笑みを浮かべた。

「そのテープ、来週持って来てよ。どんなのか聴いてみたい」

「わかった」

 奈々子は返事をしてから、急いで音楽教室を出た。これ以上ナギに悪口を言われないうちに。彼には悪い噂がたくさんある。まだ未成年のうちからススキノで毎晩遊んでいるとか、誰彼構わず『夜のお相手』をして、その相手には金持ちの女たちや、男まで入っているとか。修二は『ただの噂だ。ススキノに嘘も本当もない』とよくわからないことを言っていたが。

 修二。

 そうだ、修二に会いに行こう。

 今夜も狸小路で路上ライブをやるはずだ。

 奈々子は大通りへの道を歩き始めた。

 家には、まだ、帰りたくなかった。




 

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