2016.7.30 1998年
神崎奈々子は、声楽の先生の前で『私を泣かせてください』を歌っていた。CDを聞きながら真似をして何度も何度も発声練習したおかげで、元々きれいだった声に厚い響きが加わり、空気が音色に合わせて揺れ動いた。
「すごいわ。今まで聴いた中で一番上手い。誰よりも上手」
みのり先生はいつも褒めてくれたが、奈々子は満足していなかった。目指しているのはモーツァルトの『夜の女王のアリア』だ。あの曲が歌いたい。しかし、一番高い音がどうしても出せない。高すぎる。でもいつか歌えるようになりたい。練習するしかない。
レッスンを終えて防音室を出ると、かすかにピアノの音がした。みのり先生の息子が弾いているのだ。ラヴェルのソナチネを。奈々子はそっと、ピアノがある部屋のドアを開けた。
「何?」
ピアノを弾いていた手が止まり、派手な金髪の、きれいな顔の男が奈々子をにらんだ。演奏の邪魔をされるのが何よりも嫌いだからだ。
「ナギ、ラヴェル弾けるんだ」
ナギというのは、彼のあだ名だ。母親も奈々子もススキノ周辺の人も、みんな彼をナギと呼んでいた。理由はわからない。彼の本名を、奈々子は知らなかった。誰も口にしないからだ。
「当たり前でしょ?何?バカにしに来たの?」
「『クープランの墓』って弾ける?」
「弾けるけど?」
「弾いてみて」
「は?」
「あんたが弾くとどうなるか聴いてみたい」
「なんで?」
「最後のトッカータだけでいいから」
ナギは困惑しているようだったが、奈々子が自分をじっと見たまま動かないので、仕方なく言われた曲を弾き始めた。
弾き終わると、奈々子は真顔で、
「やっぱり違う」
と言った。
「は?何それ。せっかく弾いてやったのにバカにしてんの?」
ナギは怒り出した。
「あ、違う。そういう意味じゃないの」
奈々子は慌てて説明した。
「前にね、たぶんNHKのラジオだと思うんだけど、『クープランの墓』が通して全曲、流れてたの。それがすごくきれいな演奏で。特に最後のトッカータが、すごくなめらかで、流れるようで、なんていうか……」
奈々子は少し間をおいてから、
「愛だと思った」
と口にした。ナギは思わず息を吹き出した。
愛?バカげてる。
「笑わないでよ。私の説明が悪すぎて伝わらないだけで、本当にすごい演奏だったんだから!なのに、誰が弾いているか聞き逃しちゃったの。演奏はテープに録ったんだけどナレーションが途中で切れてた。それから中古のCDとか、借りられるものはありったけ聴いてあの音を探したの。でも、みんな弾き方が違うの。あのなめらかさがないの。ブツブツ途切れるような音で弾いてる人が多くて」
「トッカータって言葉の意味、あんたわかってる?」
ナギの口調はあからさまにバカにしていた。
「わかってる!でもあの演奏はあまりにもすごかったから。なんていうの?すごく優しいっていうか、それでいて激しいっていうか、うーん」
奈々子はしばらく言葉を探してから、
「抱かれてる感じ?」
と言った。
「あんた、そっちの経験もないでしょ絶対」
「どうでもいいでしょ?」
奈々子はにやつくナギをにらんだ。
「とにかく私はあのトッカータを弾いた人を探してるの。あんたの演奏も違ってた。それだけ!ごめん。もう帰る。余計なことしてごめん」
奈々子はくるっと向きを変えると、ピアノの部屋を出た。そして思った。あんなに自信のあるナギでも、同じ曲であの音を出すことはできないんだと。それがクラシックの不思議な所だ。同じ曲でも演奏者によってまるで違う曲になってしまう。
「ねえ」
声がしたので振り向いた。ナギが廊下に出て、無表情で腕を組んでこちらを見ていた。
「さっき、テープに録ったって言ってたよね。あんたが抱かれてる演奏」
「やらしい言い方はやめてくれない?」
奈々子は顔を赤らめた。
「あんたが自分で言い出したんでしょ?」
ナギはまた、人をバカにしたような笑みを浮かべた。
「そのテープ、来週持って来てよ。どんなのか聴いてみたい」
「わかった」
奈々子は返事をしてから、急いで音楽教室を出た。これ以上ナギに悪口を言われないうちに。彼には悪い噂がたくさんある。まだ未成年のうちからススキノで毎晩遊んでいるとか、誰彼構わず『夜のお相手』をして、その相手には金持ちの女たちや、男まで入っているとか。修二は『ただの噂だ。ススキノに嘘も本当もない』とよくわからないことを言っていたが。
修二。
そうだ、修二に会いに行こう。
今夜も狸小路で路上ライブをやるはずだ。
奈々子は大通りへの道を歩き始めた。
家には、まだ、帰りたくなかった。




