2016.7.26 火曜日 研究所
昼過ぎ。
夜中に奈々子さんが出てきたんですよ!
早紀は来るなり叫んだ。興奮で顔を赤くしながら。
しかも『結城に近づくな』って言ったんです!
タイミング悪く、助手:結城はソファーでテレビを見ていた。早紀が叫ぶのを聞くと、けげんそうな顔で彼女の方を向いた。今こそ聞く時だ。久方は結城をにらんだ。
どういう意味か、心当たりあるだろ?結城。
久方は強い口調で言った。
何の話だ?
結城はやる気のない様子で頭をかいた。久方と早紀は、交互に、奈々子の幽霊が出てきたことや、高谷修平から聞いた話を説明した。
みんな揃って何を言ってるんだか意味わかんねえって。
幽霊なんかいるわけないだろ?
結城はあくまで信じない、見えないと言い張り、また2階へ上がってしまった。そして、嫌味のようにテンペストを弾き始めた。
昔からあんな感じなんだ。
僕のことも二重人格って言うし。
久方は不満を込めてつぶやいた。そして、辛そうな様子の早紀を慰めたいと思い、ポット君にコーヒーを頼み、自分はビスケットを取りに地下へ行った。ちょうどイギリスのものが届いたところだった。
久方が戻ると、早紀はスマホを見ていた。
修平に今の結城さんの様子を伝えてみました。
明らかに知らないふりだそうです。
奈々子さんと修二と結城さんは3人で音楽活動をしていたそうです。なぜ隠すんだと思います?
やっぱり何かあったんでしょうか?
その『何か』には自分が絡んでいるだろうと久方は思ったが、できれば早紀にはそのことを考えてほしくないとも思った。
所長、昔流行ったアーティストで、髪の短い、西洋風の真面目な、おとなしそうな人を知りませんか?
西洋の女性アーティストなんて星の数ほどいるよ。
ですよね。私もかなりググったんですけど、見つけられませんでした。
早紀が言うには、佐加の部屋にあったケイティ・ペリーの顔が、奈々子に会ったあと、別な女性の顔に見えたという。久方も探してみたが、早紀が言ったようなありきたりな特徴では、見つけるのは難しかった。
なんでこんなことが起きてるんでしょうねぇ。
早紀は疲れた様子で頬杖をつきながら、ビスケットをかじった。いろいろなことが気になって、食べることに集中できていないようだ。
テンペストは終わり、ピアノは聴いたことがない現代風の曲に移っていった。
そうだ、明日からバイトなんですよ。人生初です。
早紀は急に元気になって背筋を伸ばした。
人生初。いい響きだ。
言ったのが早紀だからだろうか。
久方は思わず微笑んだ。
たぶん2日分はヨギナミの旅行代になるので、残りが入ったら何に使おうか考えてるんですけど、たぶん本代に消えると思います。最近ネットで古本を探すようになったんですけど、本より送料のほうが高かったりしますよね。電子書籍が一番早いですけど高くつくし。
早紀がまだ手に入れていない『人生初給料』の使い道をいろいろ考えている間、久方は背後に『別人』の気配を感じていた。何か話したそうにしている。たぶん、早紀と。でも、久方はそれを全力で拒んだ。
早紀だけはこいつに渡したくない。
他を失っても、早紀だけは。
今は、奈々子さんの気配はしない?
久方は聞いてみた。早紀は首を横に振った。
良かった。とりあえずまだ存在を脅かされてはいない。
でも、この先はわからない。
それから早紀は、佐加の誕生日にヨギナミが来なかったという話をした。どうも、平岸あかねがヨギナミを嫌っていて、ヨギナミは気を使って来なかったのではないかとのこと。
一通りしゃべってから、早紀は帰っていった。久方はまだ『別人』の気配を背後に感じていたが、さっきとは力の方向が変わっていた。
わかるよ。
久方はいまいましげに言った。
ヨギナミが気になるんだな?心配なんだな?
僕だって心配だ。
すると、声が返ってきた。
お前、
今、俺に話しかけたのか?
驚いているようだった。声には、いつもにはないブレがあった。
そうだよ。でも、今はそんな話はどうでもいい。
サキ君にとりついてる子が何者か教えろ。
久方は『別人』に向かって命令した。しかし、声は返事をしなかった。それどころか、気配すら消えてしまった。
部屋には今、久方しか存在していなかった。
なんだ?
どういうことだ?
自分から引くなんて。
話したくないのか?
久方は戸惑った。返事が返ってこないことよりも、自分のほうが奴より強いことがあるという、その事実に深く驚いていた。




