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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年7月

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2016.7.21 木曜日 研究所

 研究所に、また保坂とカフェの孫がやってきて、ポット君で遊び始めた。久方は止める気力もなく、カウンター席に座って2人と1台を無視していた。外は曇りだ。でも、光の筋が雲間から射し込んで美しい。天女が降りてきそうだ。きっと、これから晴れるだろう。

 久方が思い出していたのは、不本意ながら連れて行かれてしまった学校祭のことだ。フリーマーケット会場をうろついていたら、怖い目の女、つまり、保坂の母親に声をかけられ、ヨギナミの母親と付き合っているだろうと罵られた。久方はあの時の自分が口にした言葉が不思議だった。


 あなたがやっていることは間違っています。

 僕は関係ありません。


 間違いなく自分の、久方創の口から出た言葉だった。久方はあの時の自分の冷静さが不思議だった。ただでさえ慣れない人混みで、保坂の母親という名のモンスターが目の前にいたのに。

 そう、あの人は狂った目をしていた。誰が目の前にいようと攻撃を仕掛けてくるだろうと思わせるような。久方はそういう目つきに見覚えがあるような気がした。強烈な嫉妬の目。底知れぬ恨みの目。

 ヨギナミは早紀が上手く逃がしたらしい。良かった。見つかったら何をされていたかわかったものではない。

 その保坂の息子は、ポット君に自分で作った曲をノートパソコンで聞かせていた。ポット君がメロディーを認識して同じような声で発声し始めたので、カフェの孫が『おぉ〜!』と叫びながらスマホを向けていた。


 頼むから、その動画、ネットに出さないでね?


 と久方は言いたかったのだが、もちろんそんな勇気はなかった。そのうち助手が保坂を呼びに来て、2人で2階に上がっていった。ポット君もキッチンに戻った。


 そういえば、俺、自己紹介してませんでしたよね。

 高条勇気です。松井カフェのマスターの孫です。


 高条が軽く頭を下げた。

 久方もつられて頭を少し傾けた。



 結城さんって、新橋と付き合ってるんですか?

 花火のとき一緒にいましたけど。



 いきなり直球の質問が飛んできた。それは久方の頭を直撃し、彼は勢いよく後ろに飛ばされて倒れた。

 ただし、心の中で。


 いや、そんな話は聞いたことがないけど。


 現実の久方は、愛想笑いを浮かべながらそう答えていた。タイミングよく早紀がやってきて、高条を見るなり不快な顔をした。


 何してるの?ここで。


 保坂君と一緒に来たんだって。


 久方は優しくそう言った。ここで言い合いをされては困ると思ったからだ。ポット君が早紀の声に反応して近づいてきたので、コーヒーを頼んだ。天井からは、時々つっかえながらも、響きのいいショパンが聴こえてきていた。

 助手の迷演奏より保坂の方がましかもしれない。最近久方はそう思っていたのでその話をした。そして、若い二人を見た。黙ってそこにいるだけで輝いていて、苦労なんか何も知らない顔をしていた。


 若いんだなあ。


 久方は思わずつぶやいた。若い二人が同時に自分を見た。


 もうすぐ夏休みなんでしょう?帰省とかするの?


 久方は場を和まそうとしてありきたりな質問をしたが、なんと、2人同時に『帰りません』と答えた。お互いにびっくりしているような様子をしている2人を見ていたら、久方はだんだん悲しくなってきた。自分の家なのに、自分だけが場違いだと感じた。早めに2階の自室にこもって、心を落ち着けるためにノイズキャンセリングのヘッドホンで、バッハの『無伴奏チェロ組曲』でも聞きながら、自分の世界にこもりたかった。しかし、隣でピアノ教室が開かれている。今は無理だ。


 久方さんって、ここで何をしてるんですか?


 高条がまたしても直球の質問を飛ばしてきた。


 一応仕事はしてるんだよ?在宅で。前はドイツにいたんだけど、体調を崩しちゃって、帰国してしばらく静養してた。今でも半分休んでいるようなものだね。ここには自然の多さに惹かれて来たんだ。建物は予想以上にボロボロだったけどね。


 久方はわざとらしく部屋を見回し、天井に新しいヒビと、蜘蛛の巣を発見した。


 そうだったんですか?


 早紀が意外そうに声をあげた。そういえば、そういう話をしたことがなかったなと思った。話題になるのはいつも、忌まわしい幽霊とか、共通で見ている夢とか、覚えてもいないずっと前の話とか、本や映画のこと、自然のことだった。


 結城さんはなぜここに住んでるんですか?


 高条はさっきから直球ばかり投げてくる。何を考えているのだろう?


 それ、僕が聞きたいんだけど。とにかく役に立たないし、ピアノばっかり弾いててうるさいんだよ!


 久方が本音を発すると、高条が困惑し、早紀は笑った。それからすぐ早紀は『帰ります』と言っていなくなってしまった。


 新橋、かわいいですよね。


 高条が無表情で言った。

 早紀が、かわいい。

 当たり前ではないか。そんなのは、空が青いのと同じくらい当然のことだ。

 しかし、同級生の口からその言葉が出たという事実は、久方を不安にさせた。


 心配なんです。あ、誤解しないでくださいよ。俺はなんとも思ってないです。だけど、新橋は大人に対して無防備すぎる気がしませんか?


 それは久方も思っていた。ここに来ること自体、本当は理由がわからない。


 たぶんお父さんが劇団の人で、大人に可愛がられているからじゃないかな?


 久方はなんとなく聞いたことがあるようなことを言った。


 そうなんですか?劇団?何て劇団ですか?


 いや、名前は知らないんだけど。劇団の人とよく遊んでたって聞いたことがあるから。


 なるほど。だから大人相手だと警戒しないんだな。

 でもそれ、危ないな。


 高条はひとり言のようにつぶやいた。ピアノが止まり、保坂が下りてきた。2人は久方に軽く挨拶をして帰っていった。久方はさっき言われたことを考えた。


 新橋は、大人に対して無防備すぎる。


 そして、ピアノ狂いも大人だ。



 だから邪魔しろって言ってるだろうが。



 嫌いな奴の声がした。久方は自分の部屋に行き、ノイズキャンセリングのヘッドホンで『無伴奏チェロ組曲』を聴き始めた。何もかもを視界から追い出して、一人きりになりたかった。





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