2016.7.17 日曜日 研究所
僕のこと、はじめから知ってたんだな?
久方が助手、結城に向かって問いかけていた。
奈々子っていう人のために僕を探して、それで神戸に現れたんだ?
そうだよね?
朝のピアノ演奏を邪魔された助手は、不快感をあらわにして、
関係ない。
と言い、またピアノを弾き始めた。幻想即興曲を、乱暴に。久方は隣でしばらくわめいていたが、そのうち音に耐えられなくなって1階に逃げた。
一昨日からずっとこの調子だった。久方が『奈々子』という子の話を聞こうとすると、『知らん』『関係ない』と言ってピアノに逃げてしまう。よほど話したくないことがあったに違いない。
まさか結城が、あの、よく夢に出てくる女の子の知り合いだったなんて。彼女がどうして亡くなったのか、久方は知りたかった。幽霊になっているのだから、もう死んでいるに決まっている。高谷修平もそう言っていた。『あなたを助けようとした』。『助けた』ではなく『助けようとした』と言うのだ、おそらく彼女は失敗した。そして死んだ。
彼女が死んだのは、自分のせいだ。
久方が恐れているのはそこだった。しかし、助手は答えてくれない。仕方ないので、朝に合わないショパンを聞きながら朝のコーヒーを飲み、残っている入力を済まそうとした。しかし、どうにも集中できない。
自分の過去に関わりのある人が、まわりに集まりすぎている。
偶然にしてもおかしい。
これが『あの人』の仕業だったとしたら?
久方はそれを考えると恐ろしくなってきた。
なぜ北海道に戻って来た?
助手に何度も尋ねられた。もしかして、このためだったのでは?いや、そんなはずはない。自分はただ一人になりたかっただけだ。そしたら、たまたまこの場所を紹介された。それだけだ。
でも。
みんながあの人を探してる。
みんながあの人のことを僕に聞きたがる。
何も覚えてないのに。
同じことを繰り返し考え続けながら、午前は過ぎていった。
午後3時。天井から響いてくる『水の戯れ』に呼応するように、外では雨が降り出した。同じ頃に早紀がやってきて、テーブルの上に学校祭のチラシを置いた。
とうとう明日です!
もちろん来てくれますよね?
早紀がニヤッと笑った。久方は気が進まなかった。町の人がたくさん来るからだ。また別人の仲間に会ってしまうかもしれない。それでなくても人は苦手なのに。
返事に迷っている間に、早紀は弾んだ声でプログラムの説明をした。
うちのクラスはたこ焼き屋とレストランなんです。ヨギナミのレストランから食事提供されているし、コーヒーは松井カフェですから味は確かですよ。3年生は寸劇をやるそうですが、ホラーなので怖いかもしれません。体育館では一般の人も入ってフリーマーケットがあります。買い物が好きな人はこれがメインだと思ってるみたいです。あ、そうそう、晴れてたら、夜に花火まであげちゃうんです。予算は町から出てるそうです。もう学校祭じゃなくて、町の祭りみたいですね。
早紀は一気にしゃべってからコーヒーを飲み、
あ、所長の分のお昼はもう予約しちゃいました!
と、にこにこしながら付け足した。
予約されちゃってるのかぁ。
久方は横目でつぶやいた。もう行くしかなさそうだ。
それから早紀は天井を見上げた。ピアノ狂いはまだ水と戯れている。いや、この弾き方だと、水を汚しているようにしか聴こえない。早紀があいかわらず助手ばかり気にしているのは嫌だが、それよりも今の久方は、明日という難関をどう乗り切るかで頭がいっぱいだった。町の人の存在は、彼にとっては恐怖なのだ。
早紀が機嫌よく帰っていった後、助手が2階から下りてきて、テーブルの上のチラシを見て、
ふーん。
とだけ言って、ソファーに座ってテレビを見始めた。
学校祭、行くの?
久方は一応聞いてみた。
行くわけないだろ。
助手は言ってから振り返り、久方をにらんだ。
お前は行けよ。
少しは町の人と付き合え。
それからテレビに顔を向け直し、黙った。久方は散歩に行くことにした。長靴を履き、傘をさして外を歩いた。この雨はしばらく続きそうだ。明日の花火は無理だろうなと久方は思った。それから、
いっそ洪水にでもなって、学校祭がなくなればいいのに。
と、大嫌いな平岸あかねのようなことを、夕方いっぱい考え続けた。




