2016.7.12 1979年
根岸菜穂は死んだ犬のなきがらを抱えて、泣きながら道を歩いていた。飼い犬ではなく、近所ののら犬だったが、菜穂は見かけるたびに話しかけたり、抱きついたり、一緒に遊んだりしていた。もうずいぶん前、菜穂が小学生の頃からだ。親は動物が嫌いで、菜穂は犬を飼うことができなかった。
今日、この『小さなお友達』が、車にはねられて死んでしまった。菜穂は悲しんで、犬のなきがらを自宅の庭に埋めようとした。しかし、
「その汚い犬を捨ててくるまで家には入れませんよ!」
母親は怒ってそう言うと、玄関のドアに鍵をかけてしまった。歳の割に言動が幼い娘に、両親はうんざりしていた。もう高校生なのに、いつになったら年相応にふるまえるのか。いつまでも子供みたいに、と。
泣きながら菜穂は歩き続けた。
どうしよう。
この子をゴミに捨てるなんてできない。
悩みながら歩いていたので前をきちんと見ていなかった。人にぶつかった。目の前にシャツのボタンが見えた。
そっと見上げると、今まで見たことのないくらい背の高い男が、沈んだ顔で菜穂を見下ろしていた。
菜穂は思わず小さく叫んで後ろに引いた。
怖い。
菜穂は犬を抱えたまま後ずさった。ぶつかった男は背が高い割に身が細く、丸と四角の中間のような顔かたちをしていて、男なのに、長く伸ばした髪を後ろで束ねていた。服装は学生のようだった。白いシャツ。黒いスラックス。
「その犬……」
大きな人が声を発した。
「死んだの?」
表情はなかったが、声は優しそうだった。
「くるまに、ひかれたの」
菜穂は怯えて子供のような言い方をした。すると、
「埋めてあげよう」
男が犬に手を伸ばした。菜穂は怯えながら犬のなきがらを渡した。男は、犬がまだ生きているかのように優しく抱き、背中を撫でると、歩き始めた。菜穂もゆっくりとついていった。
たどり着いたのは、雑草がはびこっている空き地だった。前に建っていた家の跡が土の中に、板や植木、割れたタイルなどの形で残っていた。男は板を土から引き抜き、掘れそうな場所を土をつつきながら探り、少し奥まった大きな草木の根本に穴を掘った。そして、犬を静かに横たえ、土をかぶせ、板を目印に差し込んだ。すべての動作がゆっくりと丁寧で、慈しみを感じさせるものだった。
この人は信用していいかもしれない。彼のことは何も知らないのに、菜穂はそう感じた。
「ここなら多分、他の人に見つからない」
男が板を見つめながら言った。なぜか、自分よりも悲しんでいるように、菜穂には見えた。
「ありがとう」
菜穂は袖で涙を拭きながら言った。
「ところで、あなたはどこのだれ?とても背が高いのね」
「俺は……新道隆、だと思う」
男は曖昧に答えた。
「だと思う?」
「何も、覚えていない」
新道は板をじっと見つめていた。
「初島先生は、君は事故にあって、記憶を失ったと言っていた」
「はつしま?」
菜穂は驚いた。
「もしかして、みどりちゃんの家?あそこの患者なの?」
初島緑は菜穂の友達で、父親は精神科医だった。
「先生を知ってるのか?」
「知ってる!私はナホ、根岸菜穂」
「ナホ」
「そう。そう呼んでいいよ?えっと……じゃ、あなたはシンちゃんね!」
「シンちゃん……」
新道は、なんだかよくわからない言葉のように、弱々しく口にした。
「本当に、何も覚えてないの?」
新道はうつむいた。
「でも、死んだ犬を埋めてあげた方がいいことは、なぜかわかる」
「いい人ね。ご両親は?」
菜穂が尋ねると、新道は悲しげに首を横に振った。
「そうなのね」
菜穂は勝手に、両親はいないんだと思った。
きっともう死んじゃったんだ。
「ねえ、これからみどりちゃんとこに行こう。私、友達なの。同じ学校なの。あなたは学生?」
「いや……わからない」
「そうなの?でも学校には行かなきゃだめよ。ほら立って立って!!」
菜穂が急かすと、新道は少しためらいがちに、ゆっくりと立ち上がった。
本当に背が高い。
菜穂は改めて思った。
見上げていると首が痛くなりそう。




