2016.7.11 月曜日 図書室 高谷修平 伊藤百合
『神よ、私は疲れた。
神よ、私は疲れ果てた。
私は誰よりも愚かで、
人間としての分別もない』
目の下にクマができているヨギナミを見て、伊藤百合は『アグルの言葉』を思い出した。めずらしく図書室に来たと思ったら、太宰治の本のあたりをじ〜っと見つめている。杉浦が金曜に話していたせいだ。
『君は太宰を一冊も読んでないのかね!?全く!呆れるよ!』
言われていたのは奈良崎で、もちろん彼は全く気にしていない様子だったが。
本当に杉浦は罪深い。まわりを古典嫌いにするだけでなく、バイトで疲れているヨギナミにまで『読まなきゃいけないのかな?』と思わせてしまっている。それにしてもなぜヨギナミは、杉浦なんかが好きなんだろう?はっきり言って相性は良くないと思った(杉浦と合う女の子なんて、そもそもこの世にいるだろうか?)。
どうしようか。今のヨギナミに『人間失格』は重いのではないか。しかし『走れメロス』もやめた方が良さそうだ。『斜陽』も、母の話とか出てくるから大丈夫かどうか。できれば今は太宰はやめて、宮沢賢治とか、いっそ古典も杉浦も無視して、もっと生活を良くするための本を読んでほしい……。
しかし、伊藤の願いも虚しく、ヨギナミは疲れ切った真面目な顔で『人間失格』を持ってきてしまった。伊藤のはしかたなく手続きをした。すると、
「織田作之助って知ってる?」
ヨギナミが尋ねた。伊藤は驚いた。そうだ、その手があった。すぐに『夫婦善哉』を取ってきて『人間失格』は奪い取ろうと思った。しかしなぜ織田作之助なのだろう?
「知ってる人が面白いって言ってたから」
杉浦か?いや、杉浦が好みそうな作家ではない気がするが、他に心当たりがないので、とりあえず貸しておいた。
ヨギナミと入れ違いで、高谷修平が図書室に入って来た。
「あれ?ヨギナミがここにいるの珍しいね。バイト休みかな?」
修平はヨギナミの後ろ姿を目で追った。
「バイトがない日くらい休めばいいのに」
伊藤はため息をついた。
「あれ?図書委員なのに本借りてほしくないの?」
「だってどう見ても疲れてる。わからない?」
「疲れてたってやらなきゃいけない時はあるよ。そうだ、疲れてようが具合が悪かろうが、やらなきゃいけない時は……」
「杉浦が太宰がどうとか言うから気にしちゃったの!」
伊藤はカウンターを叩いて叫び、修平は驚いてのけぞった。
「そうそう!『愚かで分別がない』のは杉浦!ヨギナミじゃなくて!」
「何の話!?」
「あなたに言ってもわかりません」
伊藤は急に落ち着いて、気取った声を出した。
「それより、夏休み前だし、一回、本棚を全部整理します。高谷は壁際の本棚をチェックして、本が背表紙の分類と番号順になっているか調べて並べ直して。私は他の棚をやるから」
「わかった。よ〜し!」
修平はあからさまに喜んでいた。
「やっと図書委員らしい仕事来たぁ〜!!」
伊藤は冷めた目でちらっと修平を見た。前回の『杉浦家の捜索』が気に入らなかったらしく、修平は伊藤に会うたびにそのことで文句を言っていた。しかもあの日以来、修平はやたらに杉浦にからまれている。『明治時代の棚を見抜いた』とか何とか言われて。もしかして『ここの本全部読んだ』は本当なのか?いや、まさか。
ま、いいわ。せいぜい働いてもらおう。
伊藤は無言で立ち上がった。
2人は本棚の整理を始めた。
「あれ?なんでこれここにあんの?」
修平は科学の棚からなぜか『生れ出づる悩み』を取り出した。
「文学の棚に戻して」
「は〜い」
修平は飛び跳ねるように手前の棚に向かった。いったい何がそんなに楽しいのだろう?
「そういや、伊藤って秋倉の人じゃないんだよね?隣の村から来てんだって?」
「作業中の私語は受け付けません」
「……はい」
2人は黙々と作業を続けた。ほとんど終わった頃に、河合先生がやってきた。
「おう、やってるな。おっ、高谷。お前本当に図書委員になったのか」
「そうなんですよ〜!」
修平がまたも嬉しそうに答え、伊藤は白けた顔をした。
「そういえば伊藤、最近はずっと日曜もここを開けているようだけど」
「はい」
「教会には行ってないのか?」
よりによって今それか。余計なことを言って。伊藤は思いながらも穏やかに、
「今は学校のほうが大事ですから」
と答えた。伊藤は小さい頃からよく家を抜け出して、村の教会に行っていた。母と弟が嫌だったからだ。河合先生はそのことをよく知っている。
「そうか。ならまあ、いいけどな」
河合先生は物わかりのいい返事をしてから『そろそろ帰れよ』と言って出ていった。
「もう作業終わったよね」
修平がにやけた。
「伊藤ん家ってキリスト教なの?」
「村に大きな教会があるから、多いの、あのへんは」
伊藤は他人事のように答えた。
「伊藤、神の存在を信じる?」
ふざけている様子は全くなく、修平が尋ねた。
「たぶん、語りかける相手がほしい寂しい人間が作った、空想上の人じゃない?」
伊藤はそう言って修平から顔をそむけた。あまりにも真面目な目で見られたので、受け止めきれないと思った。
「俺、本当にいると思うよ」
修平は静かに言った。
「それじゃ、また明日」
伊藤が顔を向け直すと、修平は図書室から出ていくところだった。
高谷修平は、自分が思っていたような軽い人間ではないかもしれない。伊藤は思った。ほんの少しの間だけ。でもすぐに、いや、そんなことはないと思い直した。それから、今から帰らなければならない家のことを思い出し、気分が沈んだ。どうせまた弟が暴れるか、母が怒鳴るか、父が逃げるかしているのだ。ああ、保坂の家と、うちも大して変わらない。いや、暴力的な弟がいるから、なお悪い。
「神よ、私は疲れました」
伊藤は小声で口にした。それはヨギナミのことではなく、自分のことかもしれなかった。




