2016.7.10 日曜日 研究所
キャアアアアアアア!!!
久方は甲高い悲鳴に起こされた。時計を見るとまだ5時だ。外からは激しい雨の音がする。朝から叫ぶ迷惑な奴、それは助手に決まっている。どうせ蜘蛛とかハエとかネズミ、あるいはかま猫を見て騒いでいるのだ。ああ、アホらしい。久方は無視して寝直すことにした。しかし、階段を駆け上がって来る音がしたかと思うと、助手がやってきて叫んだ。
窓にしわしわのジジイが貼りついてるぞ!
死んでんじゃねえか!?
久方は跳ね起きて、パジャマのまま階段を駆け下りた。キッチンの窓に米田老人がぴったりとくっつき、ぎょろっとした目でこちらを見ていた。久方は慌てて外に出て、雨の中、米田さんを中に引き入れ、濡れた体をタオルで拭き、お茶を用意した。
一郎は寝てたのか。
米田さんは久方のパジャマを見てそう言った。あいかわらず長男と間違われている。久方は急いで2階に上がり、いつもの黒いシャツと白衣に着替えて戻ってきた。無責任な助手は姿を消していた。
米田さんはお茶をすすったが、手が震えていた。
駄目ですよ、こんな雨の中をパジャマで歩いちゃ。
久方は通じないだろうなと思いながら話しかけてみた。米田さんは反応しなかった。顔色が良くない。時々大きなくしゃみをしている。風邪を引いてしまったのかもしれない。
雨の音はますます強くなってきていた。これは普通の雨ではないなと久方は思った。異常気象の雨だ。叩きつけるような音を立てて水が落ちてくる。うっすらと怖さを覚える降り方だ。米田老人にはこの音が聞こえているのだろうか?久方は様子を見ていたが、雨の降り方が次々と変わっても、米田さんの表情に変化はなかった。
部屋は今、外界と隔絶した空間のようになっていた。激しい雨の音に全てがかき消され、意識のはっきりしない老人が空中を見つめている。そこにある、久方には見えない何かを見つめているように。久方は、同じ空間にいながら、自分だけがそこから外れているような気がした。ぼけているはずの老人の方が、この部屋の主のように力強く存在し、自分は影になってしまったかのようだ。それがなぜなのかは、久方にもわからなかった。
自分もいつかこんなふうに老いる。米田さんが来るたびに、久方はそれを思う。一人で森や草原をさまよっている自分を想像する。米田さんと違って家族もいない。無限の闇が、雨の音とともに迫ってくる。
物思いに沈んでいるとインターホンが鳴り、次男夫婦が、いやすみませんを繰り返しながら入ってきた。2人はいつも通り、久方に向かって丁寧すぎるほどお詫びをしたあと、父親を連れて帰って行った。久方は湯呑みを片付けてから、1階の部屋に戻ってじっと雨の音を聞いていた。雨はあいかわらず、強さや量を変えながら降り続いていた。
おおい、記録的短時間大雨情報出たってよ。
ここじゃなくて道東だけど。
役立たずの助手が2階から下りてきた。久方は相手にせずに窓の外をじっと見ていた。たぶん今日、早紀はここに来れないだろう。
助手は2階に戻っていき、すぐにピアノの音が聴こえてきた。ラ・カンパネラが雨の音に混じって落ちてきたが、いつもより音色が小さいように思えた。それだけ雨の音が大きく、激しいということだ。
早紀から、
雨の音が怖いので平岸家にいます。
あかねにヨガを強制されました。
背中が痛いです。
というメールが来た。平岸家は、この雨の音からも子供を守っているらしい。
雨、雨、雨。人に根源的な恐怖を与える音。遠い昔、あるいは深い何かに人を沈ませる音。久方の意識は半ば現実から遠のいた。創成川のフェンス、ナナコという名の女の子。迷い込んでくる米田老人。いつか会った誰だかわからない町のおばさん。初めて行ったドイツ。あの人の後ろ姿……。
雷が大きく鳴り、久方は我に返った。ピアノは超絶技巧練習曲に移っていた。奴はこんな日にいったい何を目指しているのか。それとも、雨の音が怖くて、ひたすら鍵盤を叩いて気を紛らわせているのか。久方は少し笑った。それから立ち上がって、部屋の隅に飾ってあるパステル画の女性を見た。
あなたは、今、どこにいるんですか?
久方はつぶやいた。絵の中の女性は静かに笑うだけで、何も答えない。
ひときわ強い雷の光とともに、ドーンという大きな音がし、雨がざあっと音を立ててひときわ激しさを増した。久方はずっと、絵を見つめたまま立ち、動こうとしなかった。この雨に閉ざされた闇の中に、彼女につながる何かを見つけようとした。もちろん何も見つからなかった。ただ雨だけが、何もかもを消し尽くすように、大きな音を立て続けていた。




