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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年7月

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2016.7.8 金曜日 研究所

 この世で起こることは基本的にめちゃくちゃだ、というのが、久方創の人生観である。生まれた瞬間から他人になることを強制する人がいたかと思えば、幽霊にはとりつかれるし、ギターが弾けるかっこいい人に会った(高谷修二のことだ)と思えば、いつの間にか神戸にいて倉庫に置き去りになり、気のいい人に引き取られて、隣に住んでいるチェロを弾く子と友達になり、ドイツに行ってから……。

 そこで久方は考えるのをいったんやめた。ドイツを思い出すのは悲しすぎる。しかし、何か考えていないと、この天井から降り注ぐうるさくて暗いラフマニノフから逃れられそうにない。

 どうして部屋でゆっくり考え事をしたい時に限って、こういう陰鬱な選曲をするのだろう?やはり邪悪な悪魔の使いなのだろうか。自分の人生には楽器を演奏する人がよく関わってくるような気がしたが、その中でもこの助手は、最悪の部類に入る。

 久方は別なことを考えようと思った。スマホには、早紀から送られてきた『カオス化した教室』の画像が送られてきていた。古風なカフェ風の空間に、佐加のものだとひと目でわかるショッキングなピンクのクマが座っている。所々に貼られた折り紙の花や輪っかが、大人の空間を台無しにしている。『カフェ風vsかわいいの戦いが起きています』というコメントがついていた。

 早紀。

 そう、この子が道に迷ってここに来てくれたことだけが、久方の人生で唯一の良いことだった。こんなに気の合う相手に出会ったことは今までになかった。しかしそれも、上でバカみたいにピアノを弾いている男のせいで駄目になりかねない。

 助手本人が『興味ない』と言い張っているにもかかわらず、久方は不安を感じていた。口でそう言っていても態度がおかしいのは見え見えだったからだ。

 音に対抗するために、久方はCDラックの奥からドヴォルザークのチェロ協奏曲を取り出し、いつもよりボリュームを上げてかけた。神戸で駒がよく弾いていたせいか、たまにチェロの音を聴きたくなる。

 スピーカーの近くで音を聴きながらじっとしていると、


 昔を懐かしがってる場合じゃないだろう?


 一番嫌いな奴の声がした。


 ピアノのバカが言った通りだよ。

 お前はここを出て姿を隠したほうがいい。


 久方は無視してプレーヤーのボリュームを上げた。


 また初島がここに来たらどうする?


 嫌だ、聞きたくない。


 久方はプレーヤーを止め、帽子をつかんで外に出た。


 なあ、早紀が言っていたことは本当なのか?


 太陽の下を走っても、声はまだ問いかけてくる。




 本当に、初島に会いたいのか?




 気がつけば久方は山の近くまで来ていた。以前はなかった『クマ出没注意』という看板が立てられていた。そうだ、ここに来てはいけないと町の人に言われたっけ。でも、あの人たちも僕のことを別人だと思っていた……。

 久方は看板の向こうの森をじっと見つめた。前は気楽に入れた場所が、今は全体で自分を拒絶しているように思えた。久方はくるっと勢いよく向きを変え、もと来た道を引き返し始めた。先程まできれいに晴れていた空に、雲が出始めていた。まるで自分がその灰色の塊を呼んでしまったかのように、久方にはその空の様子が重く感じられた。


 僕はどうしたらいいんだ。


 久方は小さな声でつぶやいた。今日、早紀は、学校祭の準備に忙しくて研究所には来ない。自分が会えないのは寂しいが、ピアノ狂いと接触されなくて済むのは良いことかもしれない。本当は助手をクビにできればいいのだが、神戸の両親が承知しないだろう。なぜあんな、札幌からふらっとやってきた訳のわからない男を信用するのか、久方は義理の親たちの真意を測りかねていた。高谷修二のことといい、やはりあの結城という男は、自分のことをもとから知っていて来たのだとしか思えない。


 なあ、お前、昼メシ食ってないよな?


 声が復活した。どうでもいいことだ。久方はやはり無視した。


 お前さ、早紀がここに来る前、何日も何も食べてなかったよな?


 久方は建物に飛び込み、2階の部屋に走った。隣からはすさまじい音のピアノが響いてくる。


 お前あのとき、死ぬ気だったろ。

 いや、違う。自分もろとも俺を殺そうとしただろ。

 もう死んでるんだぞ俺は。

 そういう無駄なことをして自分を傷つけるのはやめろ。


 何を言ってるのさ!


 久方は両耳を手でふさいできつく目を閉じた。



 僕を一番傷つけてるのはお前じゃないか!



 久方が大きな声で叫んだ。ピアノの音がぴたりと止まり、隣から足音がした。すぐに、助手が部屋に入ってきた。険しい表情で。


 何だ、何を一人で騒いでる?


 助手がそう言ったとたん、久方は耳から手を離して目を開けた。それから、ゆっくりとした動作でドアの前に進むと、無言で助手を押しのけて階段を降りていった。その足音で、これは久方じゃないと助手は気づいた。歩き方でわかるのだ。後を追いかけると、久方らしき人影が外に出ていくのが見えた。


 大丈夫だ。ちょっと散歩に行くだけだ。

 夜には戻る。


 久方ではない声が廊下に響いた。助手は力づくで止めようかと思ったが、やめた。きっと放っといても害はないだろう。

 全く、と結城は呆れていた。いっそ、不倫でも何でもいいから、久方本人が与儀の奥さんと仲が良ければよかったのに。久方には他人との接触が足りていない。結城はそう考えていた。『サキ君』なんていうガキんちょだけでは足りない。

 もっと大人の付き合いだ、久方に必要なのは。

 しかし久方は、自分が既に大人だということにすら、気づいてはいないようだ。

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