2016.6.24 金曜日 図書室 高谷修平
修平は図書室のドアの前に立ち、スマホで、伊藤百合から勧められた本のタイトルを見ていた。
『読書について』小林秀雄。
「俺これ読んだことあるよね?ていうか先生の好きなやつじゃない?」
『いいじゃないですか。伊藤さんもなかなかお目が高い』
「よくねえよ何でこんな古い本……」
「ドアの前で騒がないでくれます?」
いきなりドアが引かれ、怒った顔の伊藤が出てきた。
「……推薦図書借りに来ました」
修平はしかたなくつぶやいた。
「あ、そう」
伊藤がにやけ笑いを浮かべた。
「カウンターに置いてあるから今すぐ出せます。その『古い本』」
「あれ?怒ってる?」
「いいえ、別に」
伊藤はカウンターに入り、後ろの棚から『読書について』を取り出した。
「ねえ、なんで俺にこの本勧めんの?」
「図書委員はこれくらい読めないと困ります」
伊藤は事務的に言ったが、顔が少し赤らんでいた。
「えっ?」
修平は耳を疑った。聞き間違いかと思った。
「それがちゃんと読めたら、本棚の整理くらいはさせてもいい」
「マジ?」
「真面目な話です」
「いや、俺、この本はもう読んだことあ……」
修平は勢いよく喋ろうとしたが、伊藤が怖い目を向けたので、
「……もう一回読む」
それだけ言って、本をショルダーバッグにしまった。
「他の奴にも本勧めたの?全員?」
「もちろん全員に1冊ずつ」
修平は少々がっかりしたが、話を続けることにした。
「どうやって決めんの?全員と仲いいわけじゃないよね?」
「良くも悪くもない。普段本人が話してる内容とか、普段の読書傾向、本人が好きそうなことで考える。第2グループで言うなら、保坂は音楽理論、スマコンは占いか政治経済、奈良崎はね、特別に少し難しい本を勧めてる。普段活字を読んでなさそうだから」
「難しい本って何?」
「哲学」
「哲学?奈良崎に?1行読んで投げ出すんじゃねえの?」
「それがね、お父さんが先に読んじゃうから、自分もしかたなく読むんだって」
「へ〜」
読んだところで理解しているとは思えないが。奈良崎に哲学。妙な選択だと修平は思った。
「俺来たばっかでみんなの趣味とかよく知らないんだけど、高条には何を勧めたの?」
「悪いけど個人情報です。これ以上言えません」
伊藤はまた後ろの棚からユトリロ展の図録を取り出し、無言で眺め始めた。本当に絵が好きなようだ。
『修平君、そろそろ帰ったほうがいい』
新道先生が後ろでつぶやいた。修平は『また来る』と言って図書室を出た。
しかし、そこには、スマコンがいた。
「ちょうどいいところで会ったわ。これはハイヤーセルフの導きね……」
スマコンは修平と新道先生を交互に見て微笑んだ。
「あ、あのさ、俺読まなきゃいけない本があるからすぐ帰らないと……」
修平はスマコンを避けて立ち去ろうとしたが、
「教室に新橋さんがいるんだけど、お隣に古風なブレザーの女性が見えるのよ。幽霊のお仲間じゃなくて?」
スマコンの言葉で、修平は逃げるのをやめた。
2年生の教室。
新橋早紀らしき後ろ姿が、窓辺で外を眺めている。夕日に照らされて、その姿はとても美しく、まるで映画のワンシーンのようだ。
隣にうっすらと浮かぶ、半透明の人影さえなければ。
その子は紺色の丈の長いブレザーに、灰色がかった細かい柄のスカートをはいて、黒髪は長く、背中の真ん中あたりまで真っ直ぐに伸びていた。
「奈々子さん、ですね?」
修平は、教室の入り口から呼びかけた。すると、早紀と、奈々子が、全く同じ動きでゆっくりと振り返った。
『あら、修平くん。それに……新道先生?』
奈々子は、かつての担任の姿を見て、驚いた様子を見せた。
『お久しぶりです』
新道先生が静かに言葉を発した。
『できれば、こんな形でお会いしたくありませんでした』
『どういうことなの?』
奈々子は新道先生にすがるような目を向けた。
『私、わからない。どうしてこんなことになっているか』
『おそらく、初島の仕業です』
『初島』という言葉を聞いて、奈々子の顔がゆがんだ。
『あの人?なぜあの人が?……いえ、わかる。それならわかるわ』
「わかるって何を?」
修平が尋ねた。
『仕返し、嫌がらせ、きっとそう』
「嫌がらせ?そんなこと?」
修平が不満げな顔をしたのを見て、奈々子は困惑した様子で首を傾げた。
『私、どうしたらいいんですか?早紀から離れられないみたいなの』
『私も同じ状況です』
新道先生はあくまでも冷静に言った。
『何もしないのが一番だと思います。取りついてしまった生きている若者に迷惑をかけないためにも』
『生きている』
奈々子が歌うような声でその言葉を口にした。
『そうか、先生は卒業式の前に死んでしまったし、私は』
「創成川の近くで遺体で発見されたと聞きました。親父に」
修平が言った。そのとたん、奈々子が目を見開いて恐怖の顔をした。何か恐ろしい光景を見てしまったかのように。
『そう、私は殺された』
奈々子が、早紀の体と一緒に震えたかと思うと、窓伝いに横に動き、そのまま床に崩れ落ちた。
「奈々子さん!?」
修平と、そばにいたスマコンが早紀に駆け寄った。早紀は窓の下にあるヒーターにもたれるようにして気を失っていた。奈々子の姿は消えていた。
「保健室に運びましょう」
スマコンが言い、修平は少しためらってから、早紀の肩に腕を回して支え、ゆっくりと立ち上がった。
重い。
『修平君、人を呼んだほうがいい。君はまだ……』
新道先生が心配して言ったが、
「女の子一人くらい平気だって」
修平は強がって言った。
「まあ、頼もしいこと!」
スマコンが反対側で支えながら、二人で保健室に運んだ。
「保健の先生がいなくてよかったわね。今日は柔道の試合の引率のはずよ」
スマコンがドアを開けながら言った。
『先生がいないのに保健室の鍵が開けっ放しなんですか?薬の管理はどうなっているんです?』
新道先生は問題だと思ったようだが、
「ですから今日のように、先生方がいなくても自分たちで使えるように開けてあるのです。秋倉高校は生徒も先生も少ないですから、誰もいないのが普通と言ってもいいくらいですの」
スマコンが丁寧に説明した。
2人は早紀をベッドに寝かせた。
う〜ん、と言いながら、早紀が動いた。
「新橋さん、大丈夫?」
修平は呼びかけてみた。
「ん……?」
早紀は薄目を開けて、修平を数秒見てから、勢いよく跳ね起きた。
「あら、お目覚めになったのね?元気そうで何よりですこと!」
スマコンがわざとくさい大声をあげた。
「スマコン?修平?な、何ですか!?」
早紀は素早く首を振って二人を交互に何度も見ながら叫んだ。
「どこですかここは!?」
「保健室。教室で倒れてたんだよ。大丈夫?痛いところとかない?」
修平は心の底から心配して言ったのだが、
「何でもありませんよ!!」
早紀は不愉快を顔に出して、ベッドから出ようとした。スマコンが前に立ちはだかって止めた。
「今日は、平岸さんのお父様に迎えに来ていただいた方がよろしいわ。まだ顔色が良くなくってよ?」
「別にもう大丈夫……」
「それとも、わたくしの車にお乗りになる?我が家に仕える後期高齢者のメイドが運転する、1930年代のヴィンテージカーですけれど」
スマコンがそう言って微笑むと、早紀の動きが止まった。
「それマジ?冗談?」
修平は思わず尋ねた。
「本当に、お父様がそういった車を所有していてよ?それよりあなた、早く平岸家に知らせなさいな」
修平は慌ててスマホを取り出し、平岸パパに電話した。『すぐに行く』と言われ、本当に、10分後には平岸パパが保健室に現れた。
「いや〜早紀ちゃん、大丈夫かい?」
「あ、全然大丈夫です。カッパが大騒ぎしただけで」
と早紀は言って、修平の方は見ようともしなかった。
それはないだろうと修平は思ったが、今ケンカするのはまずいと思い、黙って平岸パパについて外に出て、車に乗り込んだ。車内では早紀も修平も黙っていて、平岸パパだけが、
「テスト疲れかなあ。母さんの料理を食べてるから、貧血とか栄養失調ではないと思うけどなあ。まあ、ゆっくり休むといいよ」
などと、一人で話し続けていた。




