2016.6.22 水曜日 研究所
試験終わりましたぁ〜!!
昼過ぎ。早紀が嬉しそうに叫びながら部屋に駆け込んで来た。久方は思わず『おめでとう』と口にして、そのおかしさに笑った。平岸の奥さんが早紀におにぎりを持たせていた。中身は昆布と鮭だった。
平岸ママは鮭のことをシャケ、シャケって発音するんですよ。あかねにも、シャケはシャケでしょと言われました。
文章が好きなだけあって言葉が気になるようだ。この町だけなのか、北海道が全てそうなのかは知らないが、このあたりに住んでいる人たちの口調や発音は独特だ。年配の男たちは『〜だべ』『〜だべや』という語尾を使う。それが、『北のおじさん』というキャラクターを引き立てる。
保坂がよく『〜だべ』って言うの、奈良崎のお父さんの影響らしいです。奈良崎本人は、なるべく使わないようにしていると言っていました。お父さんはとてもおもしろい人で『奈良のとっつぁん』と呼ばれて親しまれているそうです。壊れた時計とか、何でも修理できるそうです。
別人のパチンコ友達の話など聞きたくもないが、早紀のクラスのことは知りたい。『所長』は黙って耳を傾けた。早紀はしばらく、クラスの人たちがどんなふうかを語り続けた。図書委員長が自分の読みたい本を正確に予想してきて怖いとか、占いをやっているスマコンと佐加は仲が悪いとか、古典文学にはまりすぎて暴走している男子がいて、いたずら好きの母親に悩まされているとか、そんなところだ。
伊藤ちゃんが恋愛小説を勧めて来るんで困ってるんです。私が恋をしているように見えるって。
ちょっと怖くないですか。
早紀は少し間を置いてから、結城とうっかり目が合って、すごく不思議な感じがしたと話した。
東京の友達は『それは絶対に恋だ』って言うんですよね。それで私、結城さんの前では変に意識しちゃって、所長と一緒にいるときみたいに自然に振る舞えないんですよ。
できれば聞きたくない話だったが、ここ数日の2人の様子から、おそらくこうなるであろうことは予想していた。なので、久方は冷静に答えた。
そういえば、あいつも最近行動がおかしいよ。やたらに出かけていってここにいないし、ピアノの演奏の仕方が変わったし……あ、明日木曜日だね。保坂君、本当に来るのかな。
今日も助手は買い物に行くと言って出たきり帰ってこない。早紀を避けているのかもしれない。
一緒に林を散歩して、コーヒーを飲み、マドレーヌを食べてから、早紀は帰っていった。久方は再び外に出て、雲に覆われた空を観察した。今日は朝からずっと雲が多く、動きも早い。何をそんなに焦っているのかと聞きたくなるくらいだ。少し目を離すと、雲の形は目まぐるしく変わる。川に流されているかのように、それらは勢いよく動いていく。
何もかも、あっという間に変わってしまう。
久方はそのことにやるせなさを感じながら部屋に戻った。
あぁ?知ってるよ。
俺が気づかないとでも思ったか?
やばいと思ったからよけて歩いてるんだぞ?
いくら俺でも女子高生に手出しはやばいでしょ。
助手は帰って来るなり早紀のことを聞かれて、機嫌を損ねたようだ。あからさまに嫌悪感を顔に出した。早紀を『女子高生』と呼ぶのはいいかげんやめてほしいと久方は思ったが『女子高生は女子高生だろ』と言い返されることはわかっているので、代わりに『お前はどう思ってるの?』と尋ねた。
どうも思ってねえって。
俺は大人の女にしか手を出さないの。
ガキんちょの遊び相手なんか興味ねえって。
助手はすぐに2階に上がって、ピアノを弾き始めた。ショパンのポロネーズ、これは何番だったろう?久方は思い出せなかった。テレビCMで使われていそうな、よく聞くメロディだ。しかし、助手の弾き方では、人を小馬鹿にしているようにしか聞こえない。
仕方なくまた外に出て歩いているうちに『英雄』という曲名を思い出したが、そんなことは久方にとってはどうでもいいことだった。
早紀が、助手への思いを『恋』と表現した。
それが一番憂慮すべき問題だ。
邪魔しろよ。
声が聞こえた。久方は立ち止まった。
絶対、止めろ。
あいつか。久方はわざと早足で歩き出した。こいつの言うことなど聞く気はない。自分だって、あの助手が早紀と付き合いだしたらと思うと気が気ではない。だが、決めるのは早紀本人だし、助手も口では興味がないと言っている。
あいつの言うことなんか信用できねえよ。
声はなおも語り続けた。
早紀が傷ついてからじゃ遅いんだぞ。
それに、お前は自分の気持ちに気づかなさすぎだ。
聞きたくない。
久方は闇雲に草原を歩き続け、気づけば、駅の近くまで来てしまっていた。
町まで出たのは久しぶりだ。
建物は多いが、人は少ない。たまに、町内唯一のスーパーから客が出てきて、真っ直ぐ駐車場に向かうくらいだ。カフェに行こうか迷ったが、あそこは既に別人の縄張りになっている。やめて帰ることにした。
声はいつのまにか消えていた。今日は出てこないつもりか。できればこのまま一生出てきてほしくない。この状態で生きていかなければならないと思うと無限に気が滅入るので、久方はあまり考えないようにしている。しかし、高谷修平が『別人の友達』を連れて現れてしまった。あの『先生』という人物は、何度でも話を聞きに来ると言った。
そして、早紀の隣に現れたという女の子だ。
ナナコさんのこと、覚えてないんですか?
高谷はそう言っていたような気がする。ナナコ。それがあの女の子の名前なのだろうか。もっと話を聞くべきだったろうか?しかし、彼らが知りたがっているのは、久方が最も話題にしたくない人のことだ。
なぜ助手はピアニストをやめたんだろう。
久方はふと疑問に思った。他に出来ることなどなさそうなのに。おそらく生活費が稼げないからだろうと思った。しかし、なぜ、札幌で活動していた男が、ピアノをやめて(実際には全然やめたことになっていないが)神戸に現れたのか。しかも、高谷修二の友達だという。
修二に話を聞きたいと久方は思った。息子の修平ではなく。しかし、勇気が出ない。何か、触れてはいけないものが出てくるような気がする。思い出せない子供時代にろくなことが起きていないだろうとは、もう予想がついている。自分は母親に拒絶されて育った。まわりの大人たちにそう聞いた。わざわざパンドラの箱を開ける必要などあるだろうか。今、そこそこいい生活をしているのに。
これのどこが『いい生活』だ。
ふざけんじゃねえよ。
声が戻ってきた。久方は耳をふさいでから、気晴らしをしようと、大好きなバーバラ・ボニーのCDをかけた。シューベルトの歌曲集だ。清らかな声でこの悪霊を追い払ってほしかった。無理なのはわかっていたけれど。




