2016.6.19 日曜日 ヨギナミの家
公務員試験を受けてみないか?
河合先生は前の面談でそう言った。全教科まんべんなくそこそこできるのに、進学できないヨギナミに『もったいない』と言って、普通の就職より頭を使う道を示したかったようだ。
真面目で几帳面だから向いてるんじゃないか。
受けるなら、今から必死で勉強しなきゃだめだぞ。作文も必要だから、やる気があるなら先生が見てやる。
ヨギナミは気が進まなかった。今の生活にさらに負担が増すのは辛い。全教科まんべんなく試験というのも気になっていた。ヨギナミは、英語と社会科系の科目が嫌いだった。自分に関係があるとは思えないからだ。セレブが好きで、英語だけ真面目にやっている佐加とは違う。
しかし、レストランのオーナー、シェフまで、
それがいいよ!
安定してるし、成績も生かせるんだから!
みんな賛成だった。ヨギナミはさらに考え込んでしまった。
母だけが冷たかった。
それ、受験費用とか問題集とか必要でしょう?
どうするの?
本来それを考えるのは親の役目ではないのかとヨギナミは思ったが、もちろん口には出さなかった。この母に何を言っても無駄だ。今日はただでさえ機嫌が悪く、野菜炒めには『味がない』と文句をつけ、ベッドカバーがほこりっぽいと言って、曇っていて天気が良くないのに布団を干してこいとか、シーツを洗えと言うし、そのせいで昨日はバイトに遅刻してひたすら謝り、散々な一日となった。
今日は一日中レストランにいられる。このままここに住み込んで、あの家に帰らなくてもよければいいのに。ヨギナミは毎日のようにそう思っていた。
昼頃、レストランにスマコンと父親、つまり、秋倉町長がやってきた。町長は銀縁の眼鏡にきちんとしたスーツ姿。スマコンは、綿菓子を思わせるふわふわしたパステルピンクのワンピースに、天然石のじゃらじゃらしたネックレスをつけていた。
ウェイトレスのおばさんが、
奈美ちゃん、公務員試験受けるんですって!
と気軽に言ってしまったので、ヨギナミは焦った。まだ決めてないのに。
へぇ〜、じゃあ、未来はうちの職員だな。
父と娘が揃って笑った。
でもお父様、うちの町だけでは募集が少ないですから、他の町に行くのもありではなくて?ヨギナミだって一人暮らしがしたいでしょうし。
スマコンが上品に言って、ヨギナミに笑いかけた。
あなた、家を出たいんでしょ?
この町を出たいんでしょ?
母親を捨てて逃げたいんでしょ?
その顔はそう言っているように見えた。見抜かれていると思った。
スマコンの母親はもう亡くなっていて、そのことを彼女は『宇宙を支配する存在になった』と表現する。噂では、テレビに出演するほど有名なサイキックだったそうだが、ヨギナミはよく知らない。町長親子が、ステーキを食べながら経済や最近の株価について意見を戦わせるのを、ヨギナミは別世界を見るような目で眺めていた。
やっぱり自分に公務員は合わない。世界が違う。
そんな気がした。
二人が帰ってから、ヨギナミはいつもより丁寧にテーブルを拭いた。
日曜は親子連れが多い。いつもなら慣れていて気にしないのだが、今日は、人の良さそうなお父さんや、幸せそうな子供、特に女の子を見るのが辛かった。本来、女の子はもっと大切に扱われるものなのだ。
でも、自分は違う。
夕方、帰り道の足取りは重かった。帰りたくない。でも早く帰って夕飯を作らないと母が文句を言う。いや、ちゃんと作ってもきっと何か言う。今日も朝から機嫌が悪かった。今も悪いに違いない。しかし明日は中間試験だ。勉強もしなくてはならない。嫌いな英語。
家に戻ると、テーブルの上に見慣れないバスケットが置いてあった。
おっさんが持ってきたの。
母がベッドから声を張り上げた。
ほんとは洋子が所長さんだかにおすそわけしたんだけど、お気に入りの女の子が試験勉強で来なかったから、ほとんど手をつけなかったんですって。
ずいぶん甘えん坊ね、その人。
つまり、平岸ママが所長に渡したものを、おっさんがここに運んできたということだ。
私もう食べたから、夕食はいらないわ。
母はそう言って娘に背を向けた。バスケットの中には、昼から放置されていたと思われる、表面の乾いたハムサンドが2つ入っていた。
つまり、所長とサキはいつも、平岸ママが作ったお昼ごはんを一緒に食べているということ?日曜に。
ヨギナミは考えこんだ。それはもう、付き合っているも同然ではないのだろうか。乾いたパンが口の中に貼りつく。あまり味を感じない。それにしても、みんな、なんて恵まれた人たちだろう。
ヨギナミは気持ちを切り替えたくて数学をやり始めた。明日の科目は英語だが、まるでやる気がしなかった。なぜみんな数学が嫌いなのだろう?ヨギナミにはそれが不思議だった。数学は答えが明快でわかりやすい。しかし、国語系や社会科系、つまり『世の中』はもっと複雑で、自分のような立場の人間には常に冷たい。
ヨギナミは問題集を解きながら、他の人とはあまりに違う自分の境遇を思った。一通り勉強を終えたときには、日付が変わっていた。




