2016.6.15 水曜日 研究所
ねえ、有名なギタリストが僕のことを覚えていたよ。
僕もギターが弾きたかったけど、手が小さいからあきらめたんだよね。
久方は部屋に入ってきたかま猫を抱き上げて、撫でながら話しかけていた。助手は、テレビの前のソファーから『細菌の塊』をにらみつけていた。
猫にそんな話しても通じないって。
ウクレレでも弾いてろ。麦わら帽子にお似合いだ。
助手はテレビをつけながら皮肉を言った。
あれは麦わら帽子じゃない、カンカン帽だよ。
久方は訂正しながらかま猫を床に下ろした。かま猫は助手に向かって真っ直ぐに走っていき、肩に乗った。助手は硬直したまま動かない。
なんでこんな奴が好きなのかなあ。
かま猫も、サキ君も。
久方にはそれがどうにも解せなかった。早紀が助手を強く意識しているのは態度から間違いない。助手の方も早紀が来ていると様子がおかしい。何より、ピアノの音が全く違う。乱暴さが減り、なんとも気持ち悪い、いや、感情がこもった演奏をするようになってきた。
ごはんを取ってくるよ。
久方は部屋を出た。数日続いた雨も止み、今日は穏やかな日差しがある。外に出ないわけにはいかない。しかし、せっかくかま猫が来てくれたのだから、もう少し様子を見ることにしよう。
久方がキャットフードの缶を持って部屋に戻ると、かま猫はいなくなっていて、助手は必死の形相でソファーに除菌スプレーをかけまくっていた。外に出て裏の割れ目も見てみたが、かま猫の姿はなかった。久方はそのまま散歩に行くことにした。
あれ〜?所長いないの?
窓から女子高生、佐加美月が現れた。後ろにはヨギナミもいる。助手、結城は、除菌スプレーをカウンターに置き、愛想笑いを作って窓を開けた。
久方なら出かけてるけど。
佐加はヨギナミの方を振り返り、『どうする?』と聞いた。ヨギナミは首を縦に振った。何の話だろうか。
こないだおっさんから聞いたんだけどさ、所長って昔、お母さんに無視されてたんだって?存在を。
しかもさ、去年の夏に、そのお母さん、ここに来たんだって。
何か知ってる?
結城は去年の夏を思い出そうとした。あれは8月の終わり頃だ。久方から札幌の病院まで来てほしいと連絡があり、休暇中なのにと苦々しく思いながら行ってみたら、大パニックが起きていて話が通じず、危うく入院させられるところだった。あの時だ。
そうだ、そうだったのか。
お母さんって、久方の母親が?ここに来たって?
結城は焦りながら聞き返した。それはまずい。居場所を知られているということだ。
うん、おっさんが言ってたから間違いないよ。
所長はお母さんの顔を見ただけでショックで倒れたって。
佐加が珍しく静かな声で話している。深刻な話だと理解しているのだろう。
それはまずいぞ。別な所に身を隠したほうがいいな。
でもあいつ絶対動こうとしないな。『サキ君』のせいで。
結城は顔をしかめた。説得するところを想像しただけで、ガキんちょのキンキン声が聞こえてきて不快なくらいだ。とても言い出せない。しかし。
やっぱり危ない人なの?そのお母さん。
ヨギナミが尋ねた。
危ないなんてもんじゃない。
悪いけど俺やることができたわ。今日は帰ってくれる?
女子高生二人は大人しく去っていった。結城は久方を探すために外に出た。
今日という今日こそは、問いたださなければならない。
『なぜ戻ってきたんだ。せっかく逃げられたのに』




