2016.6.11 土曜日 サキの日記
今日は研究所のまわりを調べることにした。変なものが仕掛けられていないか確かめるためだ。所長に『鍵、かけたほうがいいですよ』と言ってみたんだけど、やっぱり、『閉じ込められるような気がして嫌だ』と。昔倉庫に放置されて死にかけたせいだ。それがわかっている今は、無理にかけろとも言えない。でもこのままでは、だれでも入れてしまう。
あいにく天気が良くなかった。空はどんよりと暗くて、いつ雨が降ってもおかしくない(実際、夕方には降ってきた)。折りたたみの傘をバッグに入れて、廃屋と呼ばれている建物のまわりを探った。元々白かった壁は黄ばむか黒ずむかして、塗装のあちこちにヒビが入っている。裏側の壁は一面蔦で覆われていて、かま猫がいた割れ目のあたりには、似たような深度のヒビがたくさんあった。その下には苔が生えていたり、小さな草が数ミリのとても小さな白い花を咲かせていたりする。大丈夫なんだろうか、ここ。耐震性とか。
歩き回っているうちに気づいた。怖い母親に居場所を知られているのに引っ越さないのはなぜだろう?私が所長の立場だったら、すぐにここを出て知らない場所に逃げるのに。暴力を振るう親や元夫(または元妻)から逃げている人はみんなそうしているし、そうする権利があるはずだ。
昼頃に中に戻ったら、所長はまだパソコンに向かっていた。午前中は仕事をしていることが多いそうだ。何の仕事ですかと聞いたら『生物学に関する文章。データ入力のようなもの。たいしたことじゃない』と言う。
2階に行ってみた。ちょうど、結城さんが廊下にモップをかけているところだった。
さっきあの汚い猫がここを通ったんだよ。
結城さんは私の顔を見ずに、歩きながらしゃべった。
野生動物にはウイルスがついてるから触らないほうがいいんだぞ。キツネにエキノコックスって昔注意されたんだよ、俺の世代は。
久方の奴、そういうことはよく知ってるくせにな。猫かわいさに甘やかしてエサをやるから居着かれるんだよな。
言いながら笑っていたので、本気で怒っているわけではなさそうだ。私はしばらく、モップを手に動き回る結城さんを見ていた。結城さんがいる場所にだけ、熱のようなものを感じる。他の人やものが発していない何かを。
暇なら手伝え。まだ下が残ってる。
結城さんがいきなり近寄ってきて私にモップを押しつけた。そして、雑巾のかかったバケツを手に階段を降りていった。私は変な動悸を覚えながらあとをついていき、私がモップをかけている間、結城さんは窓枠やドアノブを拭いていた。無言で。
どれくらい時間が過ぎたろう?所長が廊下に出てきて、『お昼にしよう』と言った。平岸ママからまたバスケットを持たされていて、中身はからあげ、おにぎり、水菜サラダだった。3人で食べたけどほとんど会話しなかった。私は結城さんが勢いよくからあげを口に入れるのじっと見て止まっていて、所長に『食べないの?』と聞かれた。
結城さんは自分の分を食べ終わるとすぐにいなくなった。そしてまたピアノを弾き始めた。
ラヴェル、『クープランの墓』。
いつもは3時頃に始まるんだけどなあ。
所長が天井を見上げた。
私はピアノの音をじっと聞いた。やはり知っている曲のような気がした。遠い昔に聞いたことがあるような、そんな感じがする。
この曲集は全部で6曲あり、それを通して弾いているようだ。
いつもと弾き方が違う。サキ君、気づかない?
所長が上を向いたまま言った。
何かあったのかな。少しは上手くなったとか。
所長は立ち上がり、コーヒーをいれてくると言って部屋を出た。私は音の中に一人で取り残され、旋律の高まりと共に意識が飛んだ。あれはたぶん最後の曲、トッカータだ。音があまりにも滑らかすぎて、誰かに撫でられているような、ぞわぞわした感触がした。
ウイーンという機械音で我に返った。
ポット君が二人分のコーヒーを運んできた。所長はどこに行ったのかと思ったら、チョコレートを持って戻ってきた。外国のものみたいな包みの板チョコ。それを、ポット君は均等に割れる。実際に割るところを見せてもらった。確か、アーム部分の爪みたいなのを上手く使っていたと思うけど、私はピアノの音に飲まれていて上の空だった。
結城さんは、『クープランの墓』をまず全部弾き、それから最後のトッカータだけを何度も何度も何度も何度も繰り返し続けていた。練習しているというより、演奏に納得していない、まだ満足していない、と貪っているような感じ。
連続音を繰り返し聴かされると疲れる。
と所長は言った。私も、これ以上聴いていると頭が変になりそうだったので、一緒に外壁のヒビ割れを見に行った。
これは思ったよりひどいなあ。
ここは借りてる所だけど、一応業者に見てもらったほうがいいかなあ。
所長はかま猫(ヒビ割れに戻ってきていた)にエサを与えながらつぶやいていた。
それより、玄関に鍵をかけましょう。
泥棒が入ったらどうするんですか。
佐加だって入って来ちゃってるでしょ?
また来るって言ってましたよ?
と言ってみた。所長は曖昧に笑いながら、
でも、できないんだよ。どうしても。
と言った。雨が強くなってきたので中に戻った。ピアノはまだ続いていた。バスケットを持って林の道を帰る間も、後ろからずっと追いかけてきた。今は部屋にいるけど、まだ耳の奥で鳴り続けてる。
ラヴェルのトッカータ。
どこかで聞いたことがある。絶対にある。でもどこで?
結城さんはなぜこの曲を執拗に弾き続けるのか。しかもあんな、なまめかしい弾き方で。こだわりがあるんだろうか。掃除をしていた姿と、この音色が噛み合わない。本当に同じ人なんだろうか?
昔、ピアニストだった。
きっとまだ諦めきれないんだ。
そうに違いない。




