2016.6.8 水曜日 研究所
テンペストの第3楽章が聴こえる。
助手の弾き方では、世の中の全てをあざ笑っているようにしか聴こえない。特に、今の久方の状態を。
今日こそピアノはやめてくれと言わなくては。
久方は助手の部屋のドアの前まで行った。しばらくそこにたたずみ……音に耐えられなくなって1階に逃げ戻った。
何をやってるんだ……。
自分に呆れながら、ポット君が運んできたコーヒーを飲んだ。ピアノうるさいねーと話しかけてみたら、嫌そうな顔を表示した。修理から帰って、すっかり元通りになったようだ。
奴はなぜ、あんな乱暴なピアノを弾き続けるのか。
何か理由があるのだろうか。
どんな理由があろうと、早朝にピアノを鳴らされては困るのだが、久方は今まで、彼がこの仕事を引き受けた動機について、あまり考えたことがない自分に気がついた。
なぜ奴はここに?
早紀が助手を気にするのもそのせいだろうか。いや、違いそうだ。久方は心配していた。最近の早紀が助手を見る目には、危ういものを感じずにいられなかった。自分を見るときとは違う何か。
心なしか、今日のピアノ演奏にはいつもにはない熱が入っているように聴こえる。それが久方の気分をさらに波立たせていた。テンペストが繰り返し繰り返し繰り返し聴こえる。なぜこんな、暗闇に引きずりこむような曲を好んで弾いているのだろう?やはり性悪だからか、悪魔の使いだからか。
音の連なりに飲まれそうになってきたので、久方は出かけようとした。財布が薄くなっている。開けると、中にあったはずの千円札が全てなくなっていた。また別人がパチンコにでも使ったに違いない。久方はため息をついた。銀行は遠い。駅前まで歩く気にはなれない。町の人に出会ってまた別人の噂を聞かされてはたまらない。どうせ金を使う用事はない。
久方は財布のことは忘れようと思いながら外に出た。
運悪く、玄関に佐加がいた。
あー!所長!久しぶりじゃね?
カゼもう治った〜?
久方は走って部屋まで逃げたくなった。しかし、背後では邪悪なテンペストが吹き荒れている。まるで、自分の危機をせせら笑って見ているかのような。
ね〜、高谷に聞いたんだけどさ〜、
あいつにも幽霊取りついてるの知ってる?
あれ、おっさんの友達なんだよね?
佐加はこともあろうに、一番話したくない話題を直球で投げてきた。
やめてくれ。
そんな話は聞きたくない。
久方が硬直していると、佐加はなおもこう続けた。
でもさ、なんで知りもしない高谷に幽霊押しつけたんだろうね、お母さん。
友達とめっちゃ仲良かったのかな?
死んだのに生き返らせたいなんてさ。それに……。
しゃべり続ける佐加の声。テンペストの渦巻くような音。久方の意識はだんだん遠のいていった。『お母さん』という単語が致命傷だった。このことは早紀にしか話していないのに、もう佐加に伝わっている。高谷修平は、そんなことを言いふらして一体何をしようというのか。これからみんなで、触れられたくないことに踏み込んでくるのではないか。
おい、
お前、いいかげんにしろよ。
しゃべりまくる佐加を止めたのはもはや久方ではなく、『おっさん』橋本の方だった。
あっ!おっさんになった!
うわ!切り替わる瞬間見ちゃった!
佐加は全く反省することなく、手を顔にあてて目を見開いて驚いた。おっさんは呆れた顔をした。佐加があまりにもあけっぴろげに思ったことを口に出すので、説教をする気も失せてしまったのだ。
創が引っ込んじまった。金もない。
行くぞ。
どこ行くの?
与儀の家。
あ〜!うちも行く!
でも今日ヨギナミバイトでいないよ?
二人は一緒に林の道を歩き始めた。
研究所のテンペストはいつの間にか止んでいた。助手、結城は、廊下に立って二人が出ていくのを見ていた。
疲れ切った、虚ろな目をしながら。
取りつかれているのは、お前だけじゃないんだ。
結城は誰にも聞こえない声でつぶやいた。
いつまで続くかわからないのは、こっちだって同じだ。
彼は立ち尽くしたまま身じろぎもせず、長い間動かなかった。建物内は静寂に包まれていたが、彼の耳にはまだ、嵐の音が聴こえていた。
決して自分を離してはくれない、後悔と苦悩の音が。




