2016.6.6 月曜日 サキの日記
現実から目をそらす資格は、大人にはありません。
研究所に行ったとき、廊下でそんな声が聞こえた。部屋を覗くと、カウンター席に所長がいて、その前に高谷と、眼鏡をかけてスーツを着た背の高い男がいた。その男が、所長に向かって何かきついことを言っているようだった。
何をしているのかと聞いたら、カッパはよくわからないことを言って逃げた。一緒にいた男は誰なのか夕食のときに聞いたら、
先生の幽霊だよ。
新橋さん、霊感強いね。
と言った。
所長からもその話を聞いた。
所長はカウンター席で震えていた。ポット君が悲しげな顔を表示して近づいて来たので、コーヒーを持ってきてほしいと頼んだ。結城さんはまた出かけていた。こういう時のために雇われているはずなのに。何をしてるんだろう。腹が立ってきた。
高谷君の隣にいた人はね、幽霊なんだよ。
僕の別人と同じような。
コーヒーを飲み始めてしばらくしてから、所長がやっと話し始めた。
信じなくてもいい。でも、そうなんだ。修平君は、自分に取りついた幽霊と仲が良くて、一緒に問題を解決しようとして僕のところに来た。でも僕は、解決する方法なんて知らない。
そのあとしばらく沈黙していた。
私は佐加が「高谷が空中に向かってしゃべっている」と話していたのを思い出した。さっきの眼鏡の人、幽霊なんですか?と聞いたら、
サキ君、あの人が見えたんだね。
所長はまだ怯えた顔をしていた。高谷たちは一体所長に何を言ったんだろう。幽霊話が本当だとしても、所長をこんなに震え上がらせるなんて。ムカつく。
時々、外から風の音がした。ポット君が廊下を走る音も。でも、静かだった。飲み込まれそうな静けさ。私はやたらにコーヒーに口をつけて、すぐ飲みきった。もう一杯いれようと思ったらポット君が近づいてきたので、マグカップを渡して、思いつきで地下に行って、マドレーヌを発見したので所長に持っていった。
さっきの人はね、僕と別人に仲良くしろと言ったんだよ。無理だけどね。
所長は言いながらマドレーヌの包みを開け、中身を小さくちぎって口に入れた。
僕は逆に、なんで君たち仲良くできるのって聞いたよ。自分に取りついた悪霊と仲良くしゃべっているなんて、僕には信じられない。高谷君は人が良すぎるんじゃない?
カッパが、人が良い。
私は賛成しかねます。あれはしつこいカッパですと言ったら、所長はやっと笑った。そのあと、ためらいがちに、少しずつ話してくれた。
僕に幽霊が取りついているのは、母がそう望んだから。
死んだ別人を生き返らせたい、そのために息子の体を利用した。そういうことだったらしい。
母にはそういう力があった。死んだ人の魂を呼び戻して人に取りつかせる。
バカみたいな話でしょ?誰もこんなこと信じない。役立たずの助手も、医者も、僕を引き取ってくれた神戸の両親でさえ、僕のことは二重人格とか、病気って言う。
でも、違うんだよ。信じてくれなくてもいいけど。
信じるもなにも、幽霊が見えたんだから仕方ない。でも、信じがたい不思議な話ではある。科学的にはありえない。確かに誰も信じないだろう。見えなければ。
だからこんな所に住んでいたんですね。
聞いてみたら、所長はちらっと笑ってから、言った。
そうかもね。でも、ここの自然が好きだっていうのもある。秋倉に来てから、自分自身でいられる時間が増えたしね。
気晴らしに、ポット君を連れて草刈りに行こうか。
残念ながら、一緒に外に出ようとした時、あかねが飛び込んで来て、
夕食の時間忘れてんじゃないわよ!!
と怒鳴ったため、私は帰ることになった。せっかく落ち着いてきていた所長は、あかねのせいでまた怯えて、部屋に引っ込んでしまった。
夕食は、ほとんど無言。高谷も、さっきの眼鏡の男が幽霊だということ以外は、何も話さなかった。
今日はみんな元気ないなあ。
平岸パパがつぶやいていた。私もほとんど話さずに部屋に戻り、今日見聞きしたことを考えていた。
所長の生みの母親が幽霊を呼び出して、所長に取りつかせた。
何のために?
それがわからない。死んだ別人を生き返らせるためだと所長は言っていたけど、そのために自分の子供を犠牲にするなんてあり得るだろうか。ましてや、よその子まで巻き込むなんて。
そもそも、この話自体、全て本当とは限らない。所長はともかく、あの、態度がお軽いカッパの言うことは信じがたいし。
そんなことばかり考えていたら宿題やるの忘れてた。夜中に気づいて慌ててやって、終わったら日付変わってた。




