2016.6.6 月曜日 研究所 高谷修平
夕方、修平は『研究所』と呼ばれている建物の、入口にある階段を登っていた。もともと病院だった建物にしては、患者への配慮がない造りだ。入口に急な階段をつけている。
登りきったところで深呼吸して息を整えてから、修平はインターホンを押した。
誰も出て来ない。
引き戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「入りますよ〜」
修平は声をあげてから中に入って行った。廊下を進んだところのドアが開いていて、小柄な、茶色い髪の男が、窓際のカウンター席に座っている。
「久方さん」
修平が声をかけると、久方はピクッと揺れて、ゆっくりと振り返った。顔はあからさまに怯えていた。
「急にすみません。でも、どうしても聞きたいことがいくつかあるんです」
修平は久方に近づいていった。久方は椅子から立ち上がった。
「初島緑がどこにいるか、本当に知らないんですね?」
久方が勢いよく首を横に振った。体が震え始めていた。
「新橋さんに、奈々子さんの幽霊がついているの、しってますか?」
修平の言葉に、久方はまたピクッと反応した。
「知ってるんですね?」
「君も見たの?あの女の子」
久方が弱々しい声を発した。
「あの子、ナナコって名前なの?どんな人なの?」
「どんな人って……」
修平は驚いた。知らないはずがない。
調べたところでは、1998年頃に、監禁されていた『創くん』を救い出して逃げようとした。それが神崎奈々子だ。修平は父親から直にその話を聞いている。久方が彼女を知らないはずがない。
『覚えていないんですね』
新道先生が現れて、久方に語りかけた。久方は驚いて少し後ろに下がり、カウンターにぶつかった。
『あなたはまだ小さな子供だった。無理もありません』
「奈々子さんはあなたを助けようとしたんです。それで……」
『その話を創にするなって言っただろうが!!』
突然、久方が怒鳴った。いや、久方ではない。隣に、赤い髪に学生服の男が出現した。その男の動きと連動するように、久方も怒りを顔に出していた。
やべぇ、橋本だ。
憑依されてる、完全に。
修平は改めて恐怖を感じた。久方の顔が怒りで歪んでいたが、それは本人の表情ではない。
橋本旭の顔つきだ。
『創の前で初島の話をするんじゃない!動揺するだろ!』
橋本が怒鳴った。
『なぜいけないのか、もう少し詳しく教えていただけないかな』
先生が静かな声で、ただし、強い口調で言った。修平はちらっと先生を見た。こういう話し方をするときは、だいたい説教が始まる前触れだ。
『創が苦しむからだよ。それくらいわかれ!』
『創くんが苦しんでいるのは、なぜこうなったか『わからない』からではないですか?』
「そうだよ!」
修平も同意した。
「俺もなんで先生が自分についているのかわからないし、新橋さんに奈々子さんがついているのもなぜなのかわからない。いいですか、俺たちも当事者ですよ?初島がこれに関わっているのは間違いないんだ。だから知らなくちゃいけない。いいんですか?新橋さんがあのままの状態でも。いずれ気づいたら苦しむことになるんですよ?」
久方の側の表情が変わった。
「サキ君が……」
『話さなくていい。黙ってろ』
橋本が言った。
「うるさい」
久方が顔をしかめた。
「頼むから黙って消えてよ」
『そんなことを言ってる場合じゃない。お前はもう十分傷ついてる』
「誰のせいだと思ってるんだ?いいから消えろ!」
久方創が怒鳴った。こんなことは初めてだ。橋本はショックを受けた顔をすると、空中に溶けるように姿を消した。久方はカウンターの椅子に、よろけながら座りこんだ。
「……あの〜」
呆然とやり取りを見ていた修平が口を開いた。
「どうしてあなたたち、そんなに仲が悪いんですか?俺と先生みたいに協力できないんですか?困っているのはお互い様……」
「逆にこっちが聞きたいよ!」
久方が叫んだ。
「なんであんな悪霊と仲良くしなきゃいけないのさ?君はなんで幽霊と仲良くしてるの?理不尽に押しつけられたものじゃないの?」
「いや、そうですけど……」
修平は言葉に詰まった。彼にとって先生は、取り付いているというよりは、常に近くにいた家族のようなものなのだ。ケンカはするが、憎み合うような関係になることは想像できない。
「もう帰ってよ。二度とここに来るな」
久方は窓の外に体を向け、顔を背けた。修平はあきらめて帰ろうとしたのだが、
『そうはいきませんよ』
先生が言った。修平は足を止めて振り返った。先生は、久方を強い目で見つめていた。
『いいですか、これはもう君たちだけの問題ではありません若い人たちが巻き込まれているんです』
先生の声には、断固とした響きがあった。
『大人には対処する責任がある。どんなに君たちが嫌がろうと、いや、君たちだけではなく僕も含めてですが、現実から目をそらす資格は、大人にはありません。あなたたちも、いがみあっている場合ではないはずだ』
久方は背を向けたまま答えない。先生はこう続けた。
『僕たちは本当のことがわかるまで、何度でもここに来ます。新橋さんだっていずれ事情を知らなくてはならない。君たちに我々を拒むことはできません。絶対にです。今日はひとまず帰りますが、そのことは覚えておくといい』
先生がこんなきついことを言うのは珍しい。でも、内容は間違ってない。
修平がそう思っていると、
「ここで何をしているんですかッ!?」
後ろからきつい大声とともに、新橋早紀が現れた。目がギラギラして、全身から怒りを放っている。まるで、縄張りを荒らされた獣のようだ。
「いや、あの、ちょっと話をしてただけだって」
修平はその迫力に慌て、飛び退いて両手を前に出した。
「帰りなさい!」
新橋は修平をにらみつけ、それから、先生を見た。
ああ、この子には自分が見えている。間違いない。
先生は悲しげな表情になり、軽く礼をしてから、外に出ていった。修平もあとに続いた。
「先生」
修平は歩きながら話しかけた。
「友達にあんなきつい言い方しなくても良くない?」
『いいえ、駄目です。橋本のあの態度はよくありません。創くんが頑なに存在を拒否するのも無理はない』
二人はその後、無言でアパートへの道を歩いた。修平は疲れてしまい、部屋に戻ったとたんベッドに倒れこんでねてしまい、平岸あかねが
「もう夕ご飯よ!忘れてんじゃないわよ!」
と、ドアの前で怒鳴り散らすまで目覚めなかった。




