2016.6.5 日曜日 サキの日記
朝からきれいに晴れていた。
朝食の時にカッパから、
結城は、親父の学生時代の友達。
という情報を得た。ただし、それ以上聞こうとすると、
そんなに俺が気になる〜?
とニヤけられて気持ち悪いので、それ以上話せなかった。詳しいことはわからないままだ。
同級生の父親と同い年なのか、結城さん。
複雑な気持ちで草原の道を歩いた。最近ずっと雨だったけど、今日は日差しが強くて、草も木も、何もかもが鮮やかな色をしていた。
研究所に入ると、所長がソファーに座っていた。
いや、それは所長ではなかった。
隣に、赤い髪の、細い目をした、学生服を着た男が見えていた。
おう、来たのか。
残念だったな。創は朝早くに引っ込んじまったよ。
夜中に物音がしたせいで、昔のことを思い出しかけて怯えちまってな。
所長とは全く違う口調とトーンで、幽霊が話した。私はどうしていいかわからなかった。幽霊が動くと、所長の体も同じように動く。完全に操られているのがわかる。
お前と一度話したいと思ってた。
なあ、お前、こいつをどう思ってる?
幽霊はそう言いながら立ち上がり、腕を組んで、私を真っ直ぐに見た。
どうって言われても。
危ないと思わなかったのか?こんな人気のない所の、しかも男が住んでる家にのこのこ一人で来やがってよ。なんかあったらどうする気だ?俺は去年の夏から、それが気になって仕方なかったんだぞ。
なぜか、お説教が始まってしまった。
相手が善良な創だからまだ良かったけどな。
お前、結城にはもっと気をつけなきゃ駄目だ。あれはそこらのおっさんと同じだ。お前のことは、簡単に誘える女子高生だとしか思ってねえぞ。
聞いているうちに腹が立ってきたので言い返した。
そういうあなたは一体何なんですか?所長の体を勝手に使わないでください。迷惑です。あなたが所長ではなく、赤い髪の幽霊だってことは私にはわかってるんです。今すぐ、所長の体から出ていきなさい!
勢いで一気にセリフが口から出た。幽霊は少しの間ひるんでいたけど、
大したもんだな。
状況はよくわかってるじゃねえか。
偉そうに感心されてしまった。全く嬉しくない。かえって怒りが増しただけだ。さらに何か言おうとしたら、
俺だって好きで取り憑いてるんじゃねえんだ。
出ていく方法がわからないんだよ。
薬もお祓いも効かねえし。
お前知ってるか?変な医者どもが間違った判断で変な薬を飲ませたせいなんだぞ、創が精神不安定になってるのは。もちろん、一番まずいのは俺の存在だろうけどよ。
所長が、つまり、幽霊が、倒れ込むようにソファーに落ちた。
だから、頼むよ。
今のまま、創の一番の友達でいてやってくれ。
結城なんかに構うな。
あいつは本当に危ない奴だぞ。
何を根拠に結城さんを悪く言うのかと聞いたら、それには答えずに、
お前の母親はどうしてる?
と聞かれた。
不意を突かれて心がきしんだ。
言葉が出なくなった。
二宮由希だろ?
幽霊はそう言って、歪んだ笑いを浮かべた。
私の頭のなかで、妙子が、ホラーがかった薄笑いで私に近づいてきた。本物の母からは長らく連絡がないのに、妙子は常に私の頭にこびりついて離れない。
こいつ、知ってる。
私と母の間の複雑さを知って、わざと言ってる。
そんな気がした。
自分でも予想していなかった、強い不快感と怒りがわいた。相手を殴りたくなった。でも駄目だ。体は所長のものなんだから、傷つけるわけにはいかない。
幽霊はにやけたまま何か言おうとした。
その時、モップを持ったポット君が、大きな機械音とともに部屋に飛び込んできて、所長を、つまり幽霊を柄でバシバシ叩き始めた。
うわ!おい!何すんだ!?やめろ!
幽霊が走り、ロボットが追いかける。一人と一台が部屋を走り回る姿は、たちの悪いコントみたいだった。冗談にしても笑えない光景。
3周か4周くらいまわったところで、結城さんが部屋に入って来て、走ってる所長、つまり幽霊の足に自分の足を引っかけて、軽々とひっくり返した。ポット君は、倒れた所長の前で、ピタリと動きを止めた。
ごめん。
聞き慣れた声がした。
サキ君、ごめん!不愉快な目にあわせてしまって。
起き上がったのは、いつもの所長だった。赤い髪の幽霊はいなくなっていた。所長は泣きそうな顔で私を見てから、結城さんをにらみ、
お前もポット君も、やることが乱暴すぎるよ!!
と叫んだ。結城さんはめんどくさそうに頭を引っかきながら、何も言わずに2階に戻っていった。ポット君がコーヒーを二人分運んできてくれた。でも、モップを床に置いたまま忘れていった。
ロボットでも忘れることがあるのか。
所長は変なことに感心しながら、モップを自分で片付けるために2階に行った。でも、ピアノが始まったので走って戻って来た。
珍しい。エリック・サティなんか弾いてる。
あいつらしくない。
でも、このだるい感じはまさに結城だね。
所長はすっかり元に戻っていた。
私はまだ、幽霊に母の名前を出されたショックが抜けていなくて、所長に母の話をしてしまった。こちらに来てからほとんど(妙子ネタ以外では)連絡がないこと。学校を辞める時とか、いじめの対応とか、こちらから何か言えば必ず動いてくれるけど、向こうから近づいてくることはないこと。クリスマスや誕生日も一緒だったことがなくて、なぜかその日を避けるようにプレゼントが届くこと。
話してから、所長に母親の話なんてまずかったかなと思った。でも、意外と冷静に聞いてくれた。
きっと何か事情があるんだよ。
悪い人じゃなさそうだし。
僕の母親とは違う。
それからしばらく所長は黙ってコーヒーを飲み続けていた。私は、学校祭に来ませんか、と聞いてみた。町の人も来るし。
人が多そうだからちょっとな……。
佐加もいるんでしょ?
どうしてそんなに佐加が嫌なんですかと聞いたら、うるさくて、個人的なことにずけずけ入り込んでくるからだと答えた。
帰り、また所長が『ごめん』と言った。
今まで、こういうことが何度起きたんだろう?何度謝ったり後悔したりしたんだろう?自分がやったのではないことで。それを思うと悲しくなる。
平岸家に入ろうとしたとき、
なんでこんなに作ってんのよ!?バカじゃないの!?
という、あかねの怒鳴り声がした。テーブルの上には、きれいな色に揚がったトンカツの山ができていて、肉好きの私はテンション上がりまくり。食事中、あかねはひたすら黙っていたけど、私は幸せで、たぶん高谷も、平岸パパも嬉しそうだった。
あかねは、自分がどんなに幸せかわかっていない。
まともな、トンカツを作ってくれるママがいる。
こんな幸せがあるだろうか。




