2016.6.4 土曜日 サキの日記
ポット君が修理から帰ってきたよ。
というメールとともに、なつかしの半円球のロボットの画像が届いた。雨の中を研究所に向かうと玄関にポット君がいて、私を見て『オカエリー』と言った。
帰ってきたのは自分なのに。おかしかった。
ポット君がコーヒーを運んできてくれた。所長の熱も下がったようだ。
到着したとたん助手とケンカしてくれたからね。
面白くなって風邪も吹っ飛んじゃった。
所長はニコニコしていたけれど、ヨギナミさんの家の話をしようとすると『やめよう』と言われた。
結城さんは私たちが話している間に一度下に来たけど、無言で入ってきて、こちらをちらっと見て、すぐに出ていってしまった。2階に上がる足音が、いつもより大きく聞こえる。
サキ君、やっぱりあいつが気になる?
所長がなんとなく悲しいような、呆れたような顔をした。答えにくかったので話題を変えた。
いつだったか、佐加が『お小遣い足りねえ』という話を昼休み中ずっとしていた。佐加の親は音楽が好きで、高校生のお小遣いとして一ヶ月『CD一枚分』、金額にして3000円を娘に出している。ファッションが好きな佐加は服が欲しいし、自分でも作りたいから布地がほしい。全然足りないという。
私は月一万円を目安に『本代』を出してもらっている。金銭感覚がおかしくならないようにと、うちのバカと40代の娘がとりあえず設定した金額だ。単行本が一冊2000円と考えて、月5冊。月5冊で本が足りるわけがないので、古本屋やネットで探したりする。電子書籍も割引はあるけど、基本的に定価なので選ぶときけっこう悩む。必要量を確保するには工夫が必要だ。
だけど不満はない。自分が恵まれているのは知ってる。必要なものは何でも買ってもらえる。特に、母は買い物に関しては甘すぎるところがあって、うかつにあれがほしいとか言っちゃうと買われてしまう。バカも同じだ。だから私は小学生の頃から、親に物が欲しいとはなるべく言わないようにしている。何でも買ってあげるのは良くない。予算を決めよと、古本屋で見つけた教育の本に書いてあったから。あの本は本来バカと妙子が読むべき本だ。
佐加は月3000円で、学校で使うノート代もそこから工面している(それがものすごく不満らしい)し、ヨギナミなんかバイトで生活費稼ぐのに手一杯で、自分が使える小遣いなんてない。
私は自分の贅沢さを、この二人の前では言い出せなかった。あかねに聞いたら『月5千円。でも私には同人誌があるからね』となぜか誇らしげに言われてしまった。
うちの親は二人とも『自称読書家』だ。バカは一冊のお気に入り本を繰り返し繰り返し繰り返し読んでレベル99のバラバラ死体にして、気に入ったページは持ち歩いている。母は『子供を本も読めないような環境に置いてはいけない』と言う。これは『女優、二宮由希』の公式発言でもある。
しかし、うちのバカは、最近のラジオでこんなことを言っていた。
最近は本を読みすぎたバカが多いね。よく「本を読まないやつはバカ」って言いたがる連中がいるけどさ、世のSNSを見てみろよ。人のやることなすことを攻撃してんのは『本を読みすぎて「俺は頭がいい」と勘違いしたバカ』だよな。違う?そうじゃない?そういう奴は現実の世界では何も面白いことはしてないし、何の専門家でもないんだよな。
一昔前にゆとり世代を攻撃してた奴らだってさ、自分は詰め込み教育の化身だって気づいてないんだよ。知識ばっか、机の上の勉強ばっかだ。何か起きたときに「それはどういうことか」って自分で考えないから、ネットリテラシーも倫理観もないんだよ。体で身についてないんだな。勉強ばっかでさ。人を攻撃することにしか使えない頭なんて終わってるよな。ネットで人を攻撃する奴、40代以上もけっこう多いだろ?若いのとどっちが害悪か、言うまでもないよな。
奴は思いつきでてきとうなことを長々としゃべる癖がある。でも、本ばかり読んで何もわからないバカに、私もなりかけていないだろうか。月一万円もかけて。
進路、どうしよう。
なんとなく大学に行く、それしか浮かばない。
所長に大学行きましたかって聞いたら、
ドイツで生物学やってた。
とあっさり言われてしまった。忘れていた。所長は『勉強できない人の気持ちがわからない』秀才だった!
それで思い出した。前に、気になる人がフランスからメールを送ってきたと言っていたことを。
ドイツで知り合ったんだけど、
上手くいかなかったんだよ。
所長はそれだけ言って、視線を下に向けた。なんだかひどく寂しそうだった。これは恋人の話に違いないと、私の直感が叫んでいたが、所長はそのことについては話したくなさそうだった。そういえば、カウンター席がある部屋の隅に、パステル画らしい女性の絵がある。この人はなんだろう?これは誰の絵なのだろう?聞いてみたかったけどなんとなく言い出せなかった。
今日は結城さんもピアノを弾かない。何も聞こえないと、何をしているのか逆に気になる。天井をちらちら見ていたせいか、所長の機嫌が悪くなり、
低気圧で雨だし、そろそろ帰ったほうがいいよ。
と言われた。
帰ってから、ずっとスマホで古本を探しながら、結城さんは読書をする人なんだろうかと考えていた。




