2016.5.31 火曜日 サキの日記
朝4時頃、隣のカッパの声がうるさくて目が覚めた。電話でもしているのか、ずっと声が聞こえる。うるさすぎるので壁を叩いたら一度静かになったけど、また5時頃、『うわ〜やべぇ〜』という大声が聞こえた。本当にイライラした。もう眠れないと思ったのでコーヒーを入れて、飲みながら思い出したのはやっぱり結城さんのことだ。今日は会えるだろうかと。
平岸家に朝ごはんを食べに行ったら、
修平君は熱があるから休むそうだよ。
と平岸パパに言われた。さっきの『やべ〜』は熱を計っていたのか。
平岸ママは、私のコーヒー中毒を憂慮し、
朝のコーヒーをカフェインレスに変えましょう。体に良くないから。
と、カフェインレスコーヒーのドリップの袋を私に手渡した。平岸家で出すコーヒーもこれにすると言われた。ここに来てから初めて起きた不快な出来事。試しに飲んでみたら思ったよりは香りも味も良いけど、何かが足りない。
寝不足のせいか、授業中眠くて、英語の西田に目をつけられて当てられまくった。嫌味のように連続で、はい、新橋、これは?と来た。焦った。
帰り、コーヒーについて文句を言おうと思って平岸家に行ったら、平岸ママが、
試作品のケーキを久方さんに持っていってあげて。
バスケットを渡された。上手くかわされたような気がしつつ、研究所に向かった。今日も雨で降り方がだいぶ激しい。何もないところで暗くて雨だと、うっすら恐怖を感じる。
カウンター席にはいつも通り所長がいた。テレビの前のソファーには結城さんも。でも、私が所長に話しかけたとたん、テレビは消され、結城さんはすれ違いに部屋を出ていった。横に近づいたとき、変な動悸がした。
おかしいなあ。
いつもなら甘い物を見たら喜んで奪い取りに来るのに。
所長がバスケットの中のウィークエンドを覗いてから、不思議そうに天井を見上げた。ピアノの音が聞こえ始めていた。
ハンガリアン・ラプソディだね。ケーキに合わないよ。
後半になったらコミカルになるけど、あいつの弾き方じゃ乱暴すぎて楽しくもなんともないよ。
微妙な選曲。でも音はすごくきれいに聞こえた。音の一つ一つが、雨の音に溶けるように落ちてくる。
上を見上げてぼんやりしていたら、いつのまにか所長がコーヒーを入れて、ケーキもきれいに切って皿に乗せてくれていた。二人で黙ってウィークエンドを食べた。美味しいけど、学校祭で出すにはどうかなと思った。見た目はレモンがアクセントになってかわいい。持ち帰りならいいかもしれない。でも、切って出すにはどうかなと思う。大きさ的に大量生産にも向いていない気がするし。
食べたあと、しばらく曲に聞き入っていた。同じ曲が繰り返し演奏されている。結城さんは何でこんなところで、こんな曲を弾いているのだろう?
あいつ昔、ピアニストだったらしいよ。
所長が突然口を開いた。
昨日、あいつの友達っていう人から電話がかかってきた。本人札幌に行ってていなかったでしょう。だから『行動が奇怪すぎるんですけど、あれは何者なんですか?』って聞いてみた。『若い頃は札幌でピアノの演奏活動をしていた』って言うからびっくりだよ。その人も音楽やってるみたいだったな。名前聞いておけばよかった。
ピアニストなのか。ピアニストが田舎にこもって、人の世話をしながら乱暴にピアノを弾き続けてる。あかねじゃなくても妄想を誘う話だ。
曲が所長が言ってたコミカルな部分に再び入って、音が上がったり下がったり。確かに荒い感じはする。人をからかっているようにも聞こえる。
あいつはピアノの弾き方も嫌味なんだよ。たぶんそれでうまくいかなかったんだと思うよ。芸術家のくせに繊細さが足りないんだ。きっとそうだ。
普段『早朝のピアノ攻撃』に悩まされているせいか、所長は結城さんの悪口になるとよくしゃべる。でもそのうち飽きて、別な曲が始まった時、外に出たいと言い出した。
これは何ていう曲ですか、と聞いたら、
『孤独の中の神の祝福』
今日はリストの日かな。本当に選曲が嫌味だよね。
この曲の何が嫌味なのかわからなかった。『孤独』に引っかかったんだろうか。雨は止んでいて、足元に注意しながら畑まで歩いたけど、けっこう遠くまでピアノの音が響いていた。本当にきれいな、風が木を揺らすような曲で、自然に囲まれたこの場所には本当に合っていると思ったんだけど、
全然違う。あれは人間が勝手に作り出したもの。
自然と比べちゃ駄目。
だそうだ。所長にとっては、本物の、ありのままの自然が最上位なんだろう。
畑の真ん中で雨に襲われたので、慌てて研究所まで走った。ピアノの音はまだ聞こえる。激しい雨の音に遮られて少し遠く、だけどより叙情的というか、独特の響き方で。
こんどは、『森のささやき』だそうだ。
こんなの森じゃない。
絶対森じゃない。
とつぶやきながら、所長はキッチンに向かったけど、すぐ戻ってきた。
平岸の奥さんから『サキちゃんにはこれを飲ませろ』って、もらったんだけど、どうする?
と困った笑いで聞かれた。その手には『カフェインレスコーヒー』のパックが。私はタオルを握りしめて床に崩れ落ち、
普通の!普通のコーヒーをください!
と叫んでしまった。ちょうどピアノがドラマチックな部分に入っていたので、下手な演劇みたいになってしまった。所長は笑い声をあげながらキッチンに戻り、いつものコーヒーを持ってきてくれた。




