2016.5.30 月曜日 札幌
結城は、札幌の自宅マンションにいた。買いたいものがあると言って出かけてきたが、本当は新橋早紀を避けるため、気分を落ち着かせるためだった。
なぜだ?
なぜ今頃、奈々子が現れる?
一昨日、新橋早紀がピアノを聴いて泣き出したとき、隣にもう一人の女が見えた。泣いていたのは本当は早紀ではなく、その女のほうだ。
神崎奈々子。
結城は本棚からアルバムを取り出した。分厚いが、写真は数枚しか入っていない。亡くなった母のもの、小さい頃の自分。
そして、母の隣に写っている奈々子。
長い黒髪、やや細めだが、優しい目元。紺色のブレザーは高校の制服で、スカートの千鳥格子を彼女は気に入っていた。自分は古臭いと思ったのだが。
彼女は音楽教室をしていた母の生徒で、声楽を習っていた。ここで、オペラアリアを歌っていた声が、今でも聞こえてきそうだ。
修二と自分と、奈々子、3人で写っている写真もある。この二人は本当に中が良かった。ただし、恋人ではなかった。結城は当時、この二人をもどかしい思いで見ていた。
18年前、彼女はここにいた。
でも、いなくなった。
そして、なぜか今になって、新橋早紀の隣に現れた。
俺は一体何を見たんだ?
結城は、アルバムの中のぎこちない笑い方の彼女(写真は苦手だと言っていた)をしばらく見つめたあと、音を立ててアルバムを閉じ、荒っぽく本棚に放り込んだ。
気のせいだ。
そうだ、ちょうど今の早紀くらいの歳、女子高生だった。だから記憶がだぶって見えてしまったんだろう。きっとそうだ、それだけだ。
自分に言い聞かせながら本棚の縁を指で叩いていると、スマホに着信があった。話したい気分ではないので無視していたが、いつまでも切れる様子がない。諦めて画面を見て、結城は目元を歪めた。
お前、ピアノやめたなんて嘘だろ。
聞き覚えのある声がした。
息子に『久方さん』の電話番号を聞いてかけてみた。『金貸してるから返してほしい』って言ったらこの番号を教えてくれたよ。『僕も早朝にピアノを弾かれて迷惑してます。何なんですかあいつは』って聞かれたぞ。
あのクソガキが。
結城は心の中で悪態をついた。
あのさあ、勤務先に変な噂流すのやめてくれる?金借りるどころか、十数年会ってないでしょ?18年?
自分で年数を口に出して思わず震えた。
そんなにも時間は過ぎてしまっていたのか。
人一人が成長するくらいに。
『創くん』は俺が誰か気づいていなかった。声だけじゃわからないだろうな。あの時はまだ小さな子供だったし、たぶん覚えてないだろうな。
ああ、そうだ。修平が俺の息子だって気づいてたか?
一瞬何のことかわからなかった。
高谷修二、高谷修平、一文字しか違わない。
結城はそれを聞いたとたん、床にしゃがみこんで、きつく目を閉じて顔をしかめた。だから自分の名前と札幌のことを知っているのだ。そうだった。もっと早く気がつくべきだった!
あれ、あんたの息子?似てないね。
ていうか何で息子があんな田舎にいんの?
高谷修二は笑いながら説明した。息子は生まれた瞬間から『自分は先生の幽霊にとりつかれている』と言い張り、どうもその幽霊は奈々子の担任だった新道先生ではないかと言う。そして、とりつかれた原因は久方に関係があると考えているらしい、と。
あいつは好奇心が強いから、何でも知りたがる。お前のところにももう行っただろ?
でも、おかしいと思わないか?昔、奈々子が助けようとした男の子のまわりに、今、お前や、息子、関係者が集まって再び関わろうとしている。しかもキーワードは『もう死んだ人たち』だ。怪しいと思わないか?裏で誰かが手を引いているような気がしないか?
誰か。
わかっている。一人しかいない。
久方が最も恐れている人物だ。
修平はわがままだけど、体が弱い。たまには相手してやってくれや。
それと、俺に音楽のことを隠しても無駄だ。
これから知り合いのドラマーに会うと言って、高谷修二は通話を終えた。
いいねえ。
売れてなくても、音楽を仕事にしちゃってて。
結城は、自分へなのか相手へなのかわからない皮肉を口にして笑いながら、マンションをあとにした。そろそろピアノが弾きたくてうずうずしてきたが、せっかく札幌まで来てしまったのだから、甘いものでも買って帰ろうと思った。こんな気分では、好きなものでも食べないとやっていられない。
秋倉に、新橋早紀がいる。
もしかしたら、奈々子も。
結城はしばし運転席で考え込んでから、何かを振り切るように車を急発進させた。




