2016.5.28 土曜日 サキの日記
ほんと、久方にそっくりだね〜。女装した所長って感じだもんね。
研究所のカウンター席でコーヒーを飲んでいたら、助手、つまり結城さんがやってきた。所長の姿がないので待ってると言ったら、『またどっかふらふら散歩してるんだろ』と。
実は昨日、あいつの好きな山でクマの目撃情報があってさ、町のおっさんたちがわざわざここに来て『しばらくあのへんには近づかないでくれ』ってみんなで言ってたんだよね。そのうち何人かはあいつを別人と勘違いしてさ。
あの瞬間のあいつ見せたかったな。ショックが顔に出てた。
お気に入りの場所に行けなくなったようだ。かわいそうな所長。でも、山じゃないなら今どこに?
ヒマワリ畑でも見に行ったんじゃないの。それよりあんた、久方を何だと思ってる?友達?怪しいなあ。下心とかないの?あいつ金は持ってないよ。え?失礼?そりゃ悪かったね。
こんな感じでずーっと軽口を叩かれてちょっとムカついた。でも、この人なんでここにいるんだろうって不思議すぎるから聞いてみた。
給料だよ。金のため。他に仕事ないしな。
少なくとも始めはそうだった。ピアノが弾けて金くれる仕事なら何でもいいって感じで。でも、あいつと関わってたら、もう金の問題じゃなくなってきた。
あ、前に見たよね、二重人格。
二重人格ではなく幽霊です。
大人はそういうの信じないから。
鼻で笑われた。結城さんには本当に、あの赤い髪の男は見えなかったんですかと聞いたら『いないものは見えないね』とバカにしたように笑った。
そのあとすぐ、結城さんは二階に上がっていった。所長が帰ってこなくてやることがないし、興味がわいたのでついて行ってみた。結城さんは自分の部屋に入り、ピアノに向かうと、私に『なんでついてくるんだ?』と言った。『いいから何か弾いてください』と言ってみたら、一瞬奇妙な顔をしてから、ピアノを弾き始めた。
ラヴェルの『水の戯れ』
水滴が跳ねるようなきれいな音。
どうしてかわからない。でも、やっぱり、前にどこかでこの曲も聞いたことがあるような気がした。
意識が、川の流れに乗るように、
音に導かれてどこかへ消えてしまった。
私の存在がなくなって、音楽だけがあたりを満たす。
いや、あたり、なんてない。
私自身が音そのものと化したように、
『水の戯れ』だけが存在していた。
そんな不思議な感覚になっていた時、不意に音が止まった。浮いていた気球がしぼんで落ちるみたいに、私は急に足元の、『わたし』の感覚を取り戻した。
結城さんが、演奏をやめて、私を見ていた。
今まで見たことも感じたこともない、磁力のようなものにとらえられて、私は結城さんから目を離すことができなくなった。まるで誰かに押さえつけられているみたいに。
結城さんの瞳。
何かを見つけたような、何かに見つかったような、
戸惑いと驚きの混じった表情。
でも、何かを確信して私を見ている。そんな目。
こうやって書いていても、自分に何が起きたのかよくわからない。
私はまた、いつの間にか泣いていて、やっと結城さんから目をそらすことができたとき、『帰ります』とだけ言って階段を駆け下り、研究所の外まで全力で走った。林の真ん中あたりで息が切れて、後ろを振り返った。音は何も聞こえない。今日はもう、ピアノを弾くのはやめたらしい。
さっきまで晴れていたのに、空には暗い雲が現れ始めていた。雨が降る前に帰らなきゃと思ったけど、その考え方がなんだか言い訳のように感じた。本当に大事なのはそんなことじゃない。
明日また、結城さんに会いに行かなきゃ。
今日は所長にも会えなかったし。
……と思っていたら、夕食のときにカッパが、
第3グループで学校祭の話し合いすっから、明日は松井カフェで高条と昼メシ食おう。
とか言い出した。平岸ママも『松井さんのごはんならまあ、よかろう』とOKを出してしまった。あかねは来ないだろうと思っていたら、
あのカフェで、猫と戯れる美少年を見るわけね……。
ウフフフフ。
どうやら目的は学校祭ではなく妄想のようだ。
いるのかわからない神様、仏様、なぜですか?なぜこんな大事なことが起きた日に、カッパや変態とカフェに行く約束をする羽目になるのですか?
そう、あれは大事なことに違いない。
あの、目が合って、離れなくなった瞬間。
自分の全存在をとらえられたような瞬間。
理屈では説明できない力が働いた瞬間。
私の、結城さんを見る目が、180度変わった。
結城さんもそうなんだろうか?
それとも前みたいに『女子高生だ!』とか思われただけなんだろうか?大人の余裕で。
夜になってもあの瞬間を何度も思い出して眠れず、気晴らしにまたコーヒーを飲んでしまったからもう今日は眠れない。久しぶりに徹夜するかも。でも、起きていたところで何も手につかない。本を読もうとしても、結城さんのことばかり浮かんで集中できない。外からはとうとう雨の音までしてきた。あのピアノに似た音が。
私は一体どうしちゃったんだろう。
わかるような、わからないような、
わかりたくないような。




