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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年5月

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2016.5.10 火曜日 研究所

 六月上旬並みの暖かい空気が流れ込んでいると言う。でも空は雲に覆われていて、木々の輝きは思慮深い闇に変化しているかのようだ。雨の日に人間が考え事をしたくなるように、木々にとってもこの暗さは思索の時なのか。

 久方創は木々や草にも意思があると信じている、いや、信じたい人間である。たとえ自分がまともな人間でなくとも、自然はそんなことには頓着しない。包み込むように歓迎してくれる時もあるし、手痛い仕打ちをしてくることもある。今日の空気は微妙だ。お互いに気を使いながら距離を取っているが、興味を隠さずにはいられないと言う感じだ。

 歩きながら空を眺めていたら山が近づいてきた。近くの茂みで何かが動いた。たぶんリスだろう。前、倒れた木の上で木の実をかじっているのを見かけたことがある。山の動物たちが年々、人里近くで姿を現すようになっているのは、住処になっている森に食べ物がないせいか、人間の姿に何か脅威を感じているのか。


 自分が動物だったら、食べ物がなくても人間には近づきたくないな。


 と久方は一瞬思ったが、それは人間の考え方だろうと思いなおした。動物はそんなこと考えない。飢えたら食物を求めてどこへでも行く。生きるための行動にはおそらく迷いはない。人間だけが迷っているのだろうか、この広大な世界の中で。

 森の中が暗すぎて、草原に出るとトンネルを抜けたような感覚になる。その草原も決して明るくはない。誰もいない、広すぎる、草しかないという人が見ている草原はこんな感じだろうか。でも、風で一つ一つの草や枝が揺れる様を見て、生命というものを感じることがないなんて、久方にはどうにも理解できない。風だって命だと言ったら、みんな笑うだろうか、それとも困惑して黙るだろうか。

 

 別な人はどんな方なんですか?髪が茶色かったですけど。


 早紀が別人に興味を持たないことだけを願っていたが、どうやら無理そうだ。


 昔死んだ人だよ。幽霊なんだから。


 所長、その人の話になると機嫌悪くなりますね。


 そりゃそうだよ。自分が乗っとられてるんだから。


 でも、その人が何者か知っておいた方がいいと思うんですよね。


 何で?


 何が言いたいのかわからないので聞き返すと、早紀は真面目な顔で言った。


 出てきちゃうからには、対策が必要です。対策をするにはその人の情報がいります。


 出てこなければいいじゃないか、と久方は心の中でつぶやいた。しかし、『でも出てきちゃうんだから仕方ないじゃないですか』と言われるのが目に見えていたので黙っていた。


 どんな人なんですか?


 話したくないんだよ。


 何故ですか?


 何故って……?


 相手を理解したら、本当に、完全に乗っ取られそうだからだよ。と、言いたいのに、なぜか言葉を発することができなかった。本当にそうなのか?自分でも確信が持てなかったからだ。本当はどんな奴か、情報はある。でも、早紀にそれを言いたくない。別人に親しみを持ってほしくない。本当なら存在を知られたくもなかった。


 そういえば所長、マンガって読みます?


 いきなり話題が変わった。話したくないのが伝わったのだろう。読まないと答えた。実は私も苦手なんですと早紀は言った。


 図書委員長と話してたんですけど、日本のネット上のエロマンガの広告が迷惑だっていう話をしていたんですよ。未成年だからフィルタリングかけて見てないだろうと油断してる大人いるでしょ?駄目なんですよ。フィルタリングなんか機能してないです。大人のスマホとかパソコンで子供が目にするんですよ。公共の場で変なことしちゃいけないってよく言うじゃないですか。ネットって公共の場じゃないんですかね?町の看板にあんなエロ漫画の広告貼れますかってんですよ。


 早紀は本当にマンガの広告を嫌っているらしい。広告はともかく普通のマンガは?と聞いてみたら、元々嫌いだから読まないという。なぜ嫌いなのと聞くと、内容が残酷だからだと。


 僕は小学校までは友達付き合いで読んでたけど、そういえば、自分から読みたいと思ったことはあまりないかな。ネットがない時代は、話題つくりのために興味のないテレビドラマを仕方なく見ていた人がいたそうだよ。今でも年配の人はそうしてるんじゃないかな。それと似たようなものだったのかもね。逆にマンガが好きな人たちは、教科書とか普通の文学は仕方なく義理で読んでる感じだったしね。将来のためとでもいうのかな。でも、役に立つ文学なんてつまらないと思うけどね。


 何を偉そうに語ってるんだと自分で思いながら、久方は窓の外を眺めた。役に立つ文学、なんて即物的な表現だろう。役に立つお金、というのと大して変わらない卑しい感じがする。いや、お金より文学のほうが役に立つといやらしい響きが増す。それはなぜだろう?


 散歩しましたか?


 午前中にね。今日はもう出かけないと思う。今はこの建物に入ってくる薄い日差しが気になる。空気が濃いというか、重くて、何もかも違う気がするんだよね。いつもいる場所なのに。


 私もそういうことあるんです。いつもいる部屋なのに空気が違うっていうか、光が違うっていうか、何ていうか、同じ場所なのに違うっていうか……。


 早紀はこのあと知っている言葉や言い回しを並べて何かを伝えようとした。半分くらいは久方に伝わった。久方は二人で二階に行って廊下の窓から山側を見て見ようと提案して二階に向かった。早紀は何も言わずについてきた。二階の通路の奥に、山が正面に見える窓がある。飾られた絵のようだと最初見たとき思ったものだ。ちょうど夕日が山の斜面に近づいて西日が強い時間になっていた。強い日の光と通路の陰の暗さ、その中心で久方は早紀と並んで、しばらく何もしゃべらずに光にあふれる西の風景を見ていた。今しかない空気が、何かが、確かにそこにあった。二人はしばらくお互いの存在すら忘れて、その光の世界に見入っていた。



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