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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年5月

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2016.5.7 土曜日 サキの日記


 所長、具合悪そうなんですよ~。


 と、平岸ママに上目遣いでわざとらしく言ってみた。昨日も寝込んでたんですよと微妙な嘘までついた。でもママは特に文句を言うこともなく詳しく聞こうともせず、昼にはかごいっぱいのお惣菜を私に持たせて研究所に送り出した。

 所長はめずらしくソファーで横になって目を閉じていた。眠っているのかと思ってかごをテーブルに置くと、


 ばれちゃったんだよね。


 薄目を開けた所長が言った。私は昨日『別人』と呼ばれている人の姿を見たと伝えた。言っていたことも、幽霊みたいなのが所長の後ろに見えたことも。


 幽霊が見えた?


 そこは所長も驚いたようだ。見たことないですか?茶色い髪の人、と言ってみたら、起き上がってぼんやりと空中を見て数秒固まってから、


 はっきり見た訳じゃないけど、ぼんやりと記憶にある。


 とつぶやいた。


 でも、あいつの話なんかもういいよ。せっかくサキ君が来てくれたのにそんな話したくないんだ。あいつが僕の体を使って変なことをするせいで町に変な噂が立ってるんでしょう?結城の言う通りだ。出てこなきゃいいんだ。


 結城というのは助手の名字らしい。所長の声はいつもよりずっと感情的だった。私はかごに入れてきたお惣菜を並べて、一緒に食べようと言った。所長は食べている間。全く関係ないお天気の話をしていた。急に気温が下がって、砂みたいな雪が風で地面に波のような模様を作って走っていたことがあると。写真に撮っておけばよかった、絵に描く技術はないし。私は前に見かけた絵の具を思い出したので、絵を描くのは好きか聞いてみた。好きだけどあまりにも下手で書くたびにがっかりするから最近描いてないと言う。


 本物の風景にはかなわないよ。写真にも写らない微妙な空気感があるしね。スマホで簡単に写真が撮れるようになっても風景を描きたがる人がいなくならないのはそのせいだ。映らない何かがあって、それを残したくなるんだ。


 それから、所長は私をまっすぐ見て。


 こういう感覚は、僕の物なんだ。僕だけの。だから、あいつに取られたくないし、本当はサキ君にあいつのことは知られたくなかったんだよ。


 でも、知らなかったらヨギナミのお母さんと本当に仲良しなのかと勘違いしましたよ。平岸ママが心配していたので。


 と言ったら、所長は悲しい顔で黙ってしまった。言うんじゃなかったと思った。私はその場を取り繕いたかったけど、特に面白い話題もないので、結城という助手ときのう初めてまともに話したような気がすると言った。


 あいつ、かま猫が苦手なんだよ。野生動物はウイルスの塊だと思ってるから。


 思い出したついでに、二人で建物の割れ目を見てきたけど、かま猫はいなかった。町で見かけたら教えると約束した。クラスの人に黒っぽい猫を見なかったか聞いてみようと思って、初めてクラスの掲示板(古めかしいけど機能してるから、とわざわざ伊藤ちゃんが言っていたレトロな画面の、生徒だけが使える場所)にかま猫のことを書いてみた。佐加が、2月ごろに研究所の近くの林でそれっぽいのを見たとすぐに入力してきた。反応の速さに驚くと、画面を覗き見ていた所長が顔をしかめた。


 なんか怖いなあ。この掲示板。


 最近使われてないみたいですけどね。


 過去ログを見てもろくなことが書いていない。スマコンが前年度までタロット占いを勝手に配信し、みんなで文句を書き込みまくっていたらしい。少しずつスクロールしていくと、どうもみんな、保坂とヨギナミには気を使っている(あかねだけが嫌味だ)ように見えた、興味深くなってきてうっかり読み続けそうになったけど、


 そろそろ見るのやめた方がいいんじゃない?


 所長に止められた。


 僕も今それを見てわかってきた。サキ君のクラスは微妙な問題を抱えてる。保坂って人の本妻の子供と愛人の子供が同じクラスにいて、平岸さんもそれが気に食わないんだ。今までのみんなの言動と併せて考えてもわかる。


 まさか所長の口から『愛人』って言葉が出てくるとは思わなかったのでびっくりした。私はクラスのみんながまだ私に話していない(あかねからメールで一度聞いたことはあったような気がする)保坂の父親とヨギナミの母親の関係について聞いた。


 あ~やだやだ!なんで僕こんなこと知ってるんだろう!?


 所長が頭をひっかきながら叫んだ。


 僕じゃなくてあいつが誰かから聞いたことなんだよ!同じ体と頭を使ってるから覚えてるけど僕は聞いた覚えなんかないんだ!なのにあいつが勝手にヨギナミのお母さんと仲良くしてるから誤解が生じてるんでしょ?ああ~何でこうなるの!?


 所長は私に、平岸ママに『僕は関係ないんです』と説明してほしいと頼んだ。ヨギナミは知ってるんですかねと聞いたら、多分知ってると言って所長はまたソファーに倒れて、もう僕寝込む、といじけてしまった。

 助手の気配がしないので二階に上がって、入ったことのないほうの部屋を覗いてみた。大きなグランドピアノが正面にあったのでちょっと驚いた。横にベッド。ピアノの椅子からそのままベッドに転がり落ちれそうなくらい近くにある。楽譜がぎっしりと詰まったキャビネット。モーツァルト、ベートーベン、リスト、ラヴェル、ラフマニノフ、ショパン、聞きなれない作曲家のものもある。その中に、合唱曲の伴奏の本まで混じっていた。

 前にどこかで見たことがあるなと思って一冊取り出してみたら、どうも戦争を題材にした怖い歌みたいで、歌詞だけ見ても悲惨そう。こんなものを私はどこで見たのだろう?中学でも合唱ではこんな重い歌ではなく流行りの普通の歌だった。

 別の楽譜を取り出す。寺山修司『思い出すために』。

 それを見たとたん、頭の中に音楽が聞こえた。

 この曲は絶対に聞いたことがあると思った。でも、いつだか思い出せない。部分的に不正確だけどこんな歌詞だった。


 セーヌ川の手回しオルガンの老人を忘れてしまいたい。

 初めての口づけを忘れてしまいたい。

 パスポートに挟んでおいた四葉のクローバー、希望の鍵を忘れてしまいたい。

 カーテンから差し込む朝の光を忘れてしまいたい。

 おまえのことを忘れてしまいたい。

 忘れてしまいたい。

 ……思い出すために。


 忘れてしまいたいことの連続の後、思い出すために、で終わる。伴奏がすごく派手な曲だった。でも肝心の、私はどこでこの曲を聴いたのかが思い出せない。もしかしたら曲じゃなくて寺山修司の詩をどこかで読んだのか。

 忘れてしまいたいことと言えば、前の学校のいじめだ。ああ、思い出したくない。

 助手の姿がどこにも見えないので、一階に戻って所長が本当に爆睡しているのをつっついて確認してから、平岸家に帰り、平岸ママに所長の無実を報告した。


 でもそれ、別な状態のときは本当にあさみに会いに行ってるってことよね?


 お友達が心配ですか?


 どっちも心配だわあ。久方さん本気じゃないんでしょうしね。


 いえ、ですから、あれは所長ではなくてですね、


 ええ、わかってますよ、もう一人の方です。本気でもそうでなくても困るでしょ。


 そうですねえ……。


 久方さんったら、どうするつもりなのかしら……。


 ですから所長ではなくてですね。


 さんざん言いあった後、平岸ママと私はまた、頬杖をついて途方にくれたのだった。




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