2016.5.6 サキの日記 金曜日
いろんなことが起きた。いや、起きたことはそんなに多くないなんだけど、いろんなことがわかったとでも言ったらいいのか。とにかく大変なことが分かった。
今日は朝から佐加が『今日は休みでもいいじゃんね~』と何度もぼやいていた。月曜日ごろにあかねも同じことを言っていたし、何も言わなくてもみんな思っていただろう。月曜と金曜休んだら一週間休みだ!と。でも私は今日、いつもの金曜日の呪文を唱えていた。
『今日行けば明日から休みだ!』
日中考えていたことと言えば、この学校に来てから、あかね以外に一度もエロ話をふられていないということだった。
前の学校ではやたらに。処女?彼氏は?ヤったことある?みたいなことを聞いてくるバカがいた。それ、会社でやったらセクハラなんだけど、なぜ学校なら大丈夫だと皆思っているのだろう?そういうのはたいてい、ネットの無料エロマンガとかセックス描写メインの同人誌の画像とか見ちゃって変なイメージを持つようになったおバカだ。普段読んだり見聞きしたりしているものが、そのままその人の行動とか反応に出る。
この危なさは前にカントクとバカが話しているのを聞いて知った。変なポルノを見ると体が変なものに反応するようになるから、見るものには気をつけなければいかんとか何とか。(そういう本人たちが全くポルノを見ていないとは、私でも思わないどころか、夜の店とかは喜んで行ってそうだけど)それは大人が子供に注意しなければいけないことなのだけど、今のネットはアクセスと売り上げが一番大事なので、子供がうっかり見ちゃったら何て考えない。小さな子供が親のパソコンやスマホでエロ画像見て、変な知識だけ先につけてしまう。大人がそういうことに気をつけていれば、性犯罪に巻き込まれたり、うっかりやったりして『何でああなったのかわからない』ってなる少年少女は減るんじゃないだろうか。
こういう話題だと、とにかくヤるのがいいことでかっこいいことだと思っている、思わせようとしている人が多いことに気が付いてものすごく嫌になる。私はそういうことに興味がないし、それが原因でガキ扱いされても構わないと思ってる。
だいぶ前に読んだ海外の本で、あまり早くに異性に興味を持つと、他のことに集中できなくなって成績が下がり、生涯賃金や学歴に影響が出ると書いてあるのを読んだことがある。性的なことをここまで無防備に子供にさらしている国は日本くらいじゃないだろうか。それは、愛がどうとかいうのとは完全に別問題だ。
そう、そんなことを真面目に伊藤ちゃんと話していたんだっけ。図書室で。
このクラスで恋愛とかそういうのが話題にならないの、みんな気心知れてて気まずいってのもあるけど、やっぱりヨギナミのお母さんと保坂のお父さんの不倫が原因だと思うんだよね。二人には悪いけど、生々しい恋愛の失敗例を突き付けられてるようなもんでしょ?ご本人にはそれなりの事情があってもね、子供に与える影響ってあるじゃない?いくら映画や漫画がいい面だけをばらまいても、現実にあるのは望まない妊娠とか、まわりが徹底的に迷惑する不倫なんだもんねえ。
伊藤ちゃんは韓国ドラマも『一応内容を選んでるんだよ』と言い、マンガは昔から嫌いで『女性向け』という表記をやめて全部成人向けにぶちこんで原則非表示くらいにしてほしいと言っていた。
だって内容は18禁でしょ?女性向けって何?何その全女性をバカにしてる表現?まじめな本しか読みたくない人だってこの世にはたくさんいるのに。まともな漫画しか出なくなったら私もネットで読むかもしれないけど、日本にそんな日は来ないんじゃない?ネット上の無料マンガは原則読まないほうがいいよって私は言ってる。エッセイとかならまだましなものもあるけど。私が紙の本好きなの、図書委員だからじゃなくて、本から変な広告が飛び出したりしないっていうものあるかなあ。本当はネットって、いいものを載せられる場所のはずなのに、広告のせいで直視できない空間になってるよ。
図書室のカウンターでそんなことを熱く語られた。内容はぜんぶ賛成というか、普段私が思ってることと一緒なんだけど、こういうことをネット大好きな同級生とか大人に言うとどんな嫌な言葉や態度を投げられるかも、私はよく知っていた。人類がネット中毒になっているときにネットを非難するのは、神を非難するのと同じくらい勇気がいる。
これだけでも私にとってはけっこうな(ただし、良い)事件だったのに、このあと、所長にエロ話はできないけどネットの漫画読むかどうかくらい聞いてもいいかなと思って、研究所に行ってから、本当の大事件が起きた。
玄関に近づいたときに、所長らしき怒鳴り声がした。
所長が怒鳴ってるだけでも異常事態だと思うのに、その声は私が知っている人のものとはだいぶ違っていた。助手が同じくらい大きな声で何か言っている。どうやら言い合いのようだ。
お前が出てくるから久方がややこしいことになってるんだぞ!
これは助手。
仕方ないんだよ!どうしても出てきちまうんだから!
これは所長、でも、所長じゃない声にしか聞こえなかった。口調からしておかしい。
だから早めに町の人に事情を話せって言ってるんだよ。もう俺が言いふらすぞ!
駄目だ!創が傷つくだろ!
もう十分ボロボロになってるだろうが!わかんねえのか?
周りの目のほうがもっと傷つけるんだよ!あいつは人が苦手だろ?
お前が一番苦手なんだよこの野郎!
私が部屋を除くと、助手と所長が向かい合って言い合いをしていた。でも、所長の後ろに、別な人がいた。学ランを着ていて、髪の色が赤茶色くて、所長と同じ動きで助手に向かって何か言っていた。
まるで幽霊みたいに、透けていた。
これはどういうことなんだろう?と思ってみていたら、助手が所長を乱暴に突き飛ばした。何をしてるんですか!?と思わず部屋に飛び込んで叫んだ。所長は壁に当たって倒れて、意識を失ったようだった。赤茶色の髪の男は消えていた。
おう、ちょうどいい。説明するからちょっと待ってろ。
助手はさっきまでの勢いを急に失ったように無表情になり、所長を担ぎ上げると、二階の本人の部屋のベッドまで運んでいった。眠っているようにしか見えない所長を見下ろしながら、助手は、
本人は幽霊って言ってるが、俺は二重人格だと思う。
とつぶやいた。そして説明された。
たまに別な人間になったようにふるまうこと。
その状態で町の人と仲良くして誤解されていること。
久方創本人には、そうなっている間の記憶が全くなくて『別人』に会った人が親し気に話しかけてくるとショックを受けること。
パチンコに行ったり、ヨギナミのお母さんと仲良くしているのはもう一人の方で、久方創本人は町の人を怖がっていること。
今まであらゆる治療やお祓いを受けてきたけど、なにも効き目がなく、今は月一度、札幌の病院で安定剤を少量もらっているとのこと。
さっき所長の後ろに男が見えたんですけど?
と聞いたら、助手は何だかわからないと言う顔をして、
俺にはそういうのは見えないんだけど。
と言われてしまった。
幽霊だ。
所長が言っている方が正しいんだと、私は直観というか、自分の目を信じた。さっき所長が乱暴な言葉で怒鳴っていた時、後ろにいた赤毛の男。あれが見えないから助手は二重人格だと思っているのだ。
あえて追及はしないことにした。もめている場合じゃない。
所長は大丈夫なのかと聞いたら、そのうち目が覚めるだろうと言われた。
俺も気が進まないんだけど、体に強い衝撃を受けると元に戻るんだよね。
今まで何度か同じ方法で元に戻してきたけど、うっかり殺してしまいそうで怖いという。この怖さのために給料をもらっているようなものだそうだ。
俺はこいつの義理の両親に雇われてんの、こいつじゃなくて。だから久方が気に入らなくてもやるしかない。それに、金の問題じゃなくなってきてる。わかるだろ。
わかると答えた。
とにかく、町に流れている噂はだいたい別人のせいだから、それだけ覚えててやって。こいつは君に知られて嫌われるのを一番恐れてるから。
そうですか。私は別に嫌いませんよ、と言ったら、助手が笑った。笑った顔を始めて見た。改めて近くで見るとかっこよくてドキッとした。すぐに目をそらして、今日は帰ります、明日また来ますと言って研究所を出た。帰り道、もう慣れたはずなのに、草原の景色が底抜けにどこまでも続いているように見えて怖かった。見てはいけないものを見てしまった感覚がなかなか抜けなくて、平岸家の引き戸に触れて中から暖かい空気を感じたときに、初めて少し安心した。それくらい衝撃的な出来事だった。夕飯の席ではその話題は出せず、かといってエロの話もできないので、伊藤ちゃんはネットの広告が嫌いなんですよと言ったら、
好きな奴なんている?アフェリエイトで稼いでる奴だけじゃねえの。
修平が嫌な顔をした。
入院中に嫌なものを見てしまったんだけど相談もできないじゃん、ほら、やばいやつ。
せっかく遠回しに言ってるきたのに、あかねが、
エロ漫画でしょ。
とはっきり言ってしまったので、平岸夫婦に睨まれてしまった。それからみんな無言だった。私は皿洗いを手伝うふりをして平岸パパに近づいて、
今日、所長が別人になったんです。知ってました?
と皿を洗いながら聞いてみた。ああ~と平岸パパが腹から声を出した。
ちょっと乱暴な話し方するほうだろ?カフェで会ったんだよ。いやあ、早紀ちゃんに聞きたいとずっと思ってたんだけど言いにくくてさあ。
平岸ママにも教えたほうがいいんじゃないですかと私は言った。それは俺が話すよと平岸パパは皿をゆすぎながら答えた。私はお皿を拭きながら、あかねや修平にはしばらく言わないでおこうと思った。問題はヨギナミと佐加だ。もしかしたら知ってるのかもしれない。聞いたほうがいいんだろうか、でも佐加に知られると大騒ぎされそうで怖い。




