2016.4.17 日曜日 研究所
朝起きた久方が一階に降りると、めずらしく助手が先にいてコーヒーを飲んでいた。おはようと言う間もなく、
サキって子に、別人のことをちゃんと話せ。
と怖い顔で言い始めた。久方はその言葉を無視してコーヒーをいれにキッチンに向かったが、助手はそのあとをついてきた。
もう同級生にばれてるだろ。お前の口から聞くのと、他の奴から変な噂として聞くんじゃだいぶ印象が違うぞ。
久方は答えずにコーヒーを入れて部屋に戻った。
平岸家に高谷っているだろ。
助手がそう言った時、久方はビクッと体を震わせた。あの時のことを急に思い出したからだ。落とさないように、慌ててマグカップをテーブルに置いた。ゴン、という音が静かな朝に響く。中身が少しこぼれた。
あいつな、俺の名前をどこかで調べて知ってたぞ。前にこの建物に来てまわりをうろついていたことがあるんだ。きっと何か探ってるぞ。
久方は助手に背を向けたまま座っていた。
高谷。
『新道隆』の亡霊を連れて歩いている少年だ。
久方は『先生』と呼ばれていた人の良さそうな人物を知っていた。
いや、久方が知っているのではない。
『別人』の親友だった男だ、新道隆は。
久方は窓の外をじっと見ているふりをしながら黙っていた。助手はそのうちあきらめたのか、わざとくさいくらい大きなため息をついてから部屋を出て行った。そのあとすぐ、頭上から乱暴なピアノが降ってきた。『パリは燃えているか』だ。なぜこんな暗い、破滅を予感させる曲を選ぶのか、嫌味にもほどがある。
早紀に別人のことを話したほうがいい。
久方も、何度かそう思わないではなかった。早紀は変わり者を切り捨てるようなタイプではない。それはこの半年以上のやり取りでよくわかっている。だが、これは久方の存在そのものにかかわっている問題だ。少しでも茶化されたり否定されたりしたら、精神が崩壊しかねない。ただでさえ佐加にしょっちゅう痛いところを突かれて心が死にかけているのに。
外は晴れていた。林の中を歩いたら気分が良くなるだろうか。でも、久方は動かずに窓の外に視線を固定して、ぼんやりと記憶の中を泳ぎ始めていた。自分のものではなさそうなものも混じっている。そもそも自分とは何なのだろう?人生の半分近く、いや、厳密に言うと全部をこの『別人』に翻弄されてきた。今だってそうだ。




