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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年3月

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2016.3.25 松井カフェ 修平

 

『ちょっと、歩きすぎたのではないですか?』

 先生が、カフェのソファー席でぐったりしている修平に、心配そうに話しかけた。車で送ってあげると言う『平岸パパ』の申し出を断り、修平は草原を歩いて松井カフェまで来た。そして、ソファーに倒れるように座り、近づいてきたマスターに水をくださいと頼んだ。まだ息は荒い。

 呼吸を整えながらカウンターを見ると、自分と同じくらいの年齢らしい男子がノートを広げていた。ただし、手にはスマホを持っていて、アイドルらしき衣装の女の子たちが躍る動画を無音で見ているのが見える。勉強しているのではなさそうだ。

「もしかして、平岸家に来た新しい子?」

 白髪にメガネの、知的そうな年配の女性が、水の入ったグラスを持って近づいてきた。

「確かに新しく来た子ですけど、養子じゃないですよ」

 修平は冗談を言って、かすかに笑った。でも、疲れていてうまくいかなかった。先生の言う通り、歩きすぎたのかもしれない。頭がぼうっとした。せっかく新しい同級生に会いに来たのに。

「高谷修平です。春から秋倉高校に入ります」

 修平は姿勢を正して挨拶した。

「ここのマスター、松井です。孫と同じ学校じゃない?勇気?」

 マスターがカウンターの孫に声をかけた。孫はスマホを持ったままこちらを振り向いた。

「もうSNSで会ってますよ、ねえ?高条くん?」

 高谷は孫に向かってにやけた。高条勇気は怪訝そうな顔をした。

「まあ、そうなの?最近の子はもうインターネットを使いこなしているのねえ」

 無難なことを言いながら、マスターはカウンターに戻った。

「今日だけ、コーヒーをサービスしてあげるわ。転校祝いね」

 マスターはコーヒーを入れると、修平の所に運んできた。そして、孫に『あっちの席で友達と話したら?』とささやいた。勇気は一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに立ち上がり、修平の向かいの席まで来て、スマホを見せた。

 ねこが、怒りの形相でこちらに牙をむいている。

「うわあ、画面が猫に襲われてる!」

 修平はそう叫んでから、窓際を見た。同じねこが、今は『お前らなんか知らねえよ』と言いたげに、窓の外を見てくつろいでいる。

「なんで俺、こんなに嫌われてんのかな」

 勇気は苦笑いしながら画面を閉じ、スマホを服のポケットに入れた。

「せっかく会えたのにこんなこと言うの悪いんだけど、今、俺、具合悪いんだよね」

 修平は正直に言った。

「わかるよ」

「わかる?」

「顔色が悪い。こんな悪い奴見たことない」

 勇気は無表情で言った。

「そっかあ~」

 修平は大げさに頭を後ろにのけぞらせた。

「ま、わかってくれたら話は早い。聞きたいことだけ聞いたら今日は帰るよ」

「聞きたいこと?」

「久方のこと」

 修平がわざと顔を相手に近づけてニヤッと笑うと、勇気は顔をしかめた。

「なんでそればっか聞いてくんの?久方さんになんか恨みでもあんの?」

「恨みはないけど、親父の知り合いで、縁があるんだ」

「縁?」

「とにかくさあ、怪しい奴だと思わない?」

「怪しい……」

 勇気は言葉に詰まった。祖母とよく話している『もう一人の久方』について、この転校生に話すのはまだ早いような気がする。

「たまにここに来るけど、そんなに怪しくはないと思う。小柄すぎて子供に見えるくらい」

「小柄ね」

 修平の顔からにやけ笑いが消えた。久方が小柄な理由は、修平も『先生』も知っている。修平がちらっと後ろを見ると、やはり先生は悲しげに目を伏せていた。

「それよりさ、お前、平岸家に泊まるんだろ?」

「平岸家じゃなくて、平岸さんのアパートの個室を借りてる」

「平岸あかねに会った?」

「会ったけど?」

「どんな人?」

「どんな人?メガネをかけて、少女マンガ読んで、オタクっぽい感じ?」

「俺さ、友達に『平岸に気をつけろ』って何度も言われたんだけど」

 後ろでマスターが咳払いをした。修平はそれをわざと臭いと思った。勇気は気づかなかったのか、そのまま話を続けた。

「理由を聞いても全然教えてくれないんだよね。とにかく危ない、男が近づいちゃいけないとか。学校では、胸がでかい以外に特徴がないように見えるんだけど」

「確かに胸はでかい」

 修平がコーヒーを飲みながらうなずいた。平岸あかねの第一印象は『うわ、でかっ』だったのだ。たぶん勇気も同じところを見ていたに違いない。

「ママさんの店のお姉さんよりでかい」

「ママさん?」

「俺のママ、クラブのママだから」

 修平は、マスターに聞こえないように、小声でつぶやいた。

「マジで?」

「でも、学校で言いふらすなよ?真面目な俺まで遊んでると思われるから」

「お前、真面目なの?」

 勇気が今日初めて、本当におかしそうな笑いを浮かべた。

「今までのやり取りとか、今日の喋りとか、全然真面目そうじゃない」

「何言ってんの、俺ほど真面目な人間が日本に……」

 まくしたてようとしたとき、頭がぐらっとした。修平は手で頭を押さえた。

「どうした?」

「わるい、もう帰るわ」

 修平は立ち上がったが、こんどは立ちくらみがしてよろけた。ぐらつきがおさまるのをまってから、ゆっくりと歩きだし。店を出た。

『また歩くんですか?平岸さんに電話したほうがいいんじゃないですか?』

 先生が言った。修平はしばらく道の隅にしゃがみこんでから、無言で立ち上がって帰り道を歩き始めた。ここを乗り越えなくては、これから学校に通えなくなる、そう思っていた。



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